たった一つの優しい嘘
作戦決行!
「天野樹理救出作戦……決行っ!」
杉村の手元を隠す為に立てていたアタッシュケースを持ち上げて僕は立ち上がる。背中には天野樹理がしがみついている。身を低くしていた杉村が僕の合図と共に開いている外扉を音もなく潜り抜け、素早く銃を構える。それに合わせて僕も通路に向けて歩き出す。杉村の存在に数秒遅れて気付いた男性職員の一人が腰を抜かし、その場にへたり込む。
「なんだい?君は?!そんな玩具を使って僕らを脅そうとして……」
杉村が引き金を引くと同時に強烈な銃声と衝撃がフロアーに響く。その音に驚いた男性職員と岩井さんもその場に尻餅をつく。驚いて声も出せないようだ。
「ごめんなさい、岩井さん。天野樹理さんを連れていきます」
僕の進む経路の安全を確かめながら(病院なので危険性は無いが、職員に捕まる可能性があるので)杉村が僕の数歩先を先行する様に移動する。岩井さんの横を通り過ぎようとした時、その手が伸びて僕の腕を掴む。
「ろっくんさん、私は天野さんの味方です。彼女が選んだのなら、私は……それを全力でサポートしますっ!」
岩井さんに腕を掴まれ立ち止まる僕を二人の男性職員が左右から捕まえようと飛びかかってくる。岩井さんが立ち上がると同時に片足を軸にて拳とつま先をそれぞれ二人の職員に打ち込む。鋭い打撃が男性職員を近くの壁に叩きつける。
「看護師を舐めんなよ!この腰巾着どもめ。フッフフフ……やってしまった……いつかこんな日が来るとは思ってたけど、まさか今日とは」
よっぽどあの教授に日頃からストレスを与えられていたらしい。
「ろっくんさん、後ろは任せて下さい。もう、私も後には引けませんしね。同行します」
その覚悟確かに受け取った!前方に銃を手にした杉村と後方に謎の看護師拳法を繰り出す岩井さんに守られながら僕は中央棟の待合室を目指して走り出す。荷物持ちと女の子(二十歳)を抱える役割を僕が担い、攻撃面を女性二人に任せているのは男としてどうかと思うが仕方ない。適材適所である。背中におぶさる天野樹理が耳元で囁く。
「重くない?」
「軽すぎますよ。小学生を抱えているみたいに」
天野樹理が軽く踵で僕の太股に蹴りを入れる。
「レディに失礼ね。それより、さっきの事なんだけど……」
杉村が受付の佐々木さんに銃で扉を開ける様にフロアーの中から合図を送る。銃に戸惑う佐々木さんだが、僕の背負う天野樹理の姿を目にすると首を横に振り、必死に抵抗する。解錠させる事を諦めた杉村が、銃を扉の施錠部分に狙いを定めようとする。その後ろから岩井さんが割りこんで手持ちの鍵で扉を開ける。
「事情説明は後、懲戒解雇処分上等!そこを退きなさい!佐々木ちゃん!」
岩井さんの心の叫びがフロアーに響きわたる中、僕は天野さんと話しながら他のメンバーと一緒にエレベーターに乗り込んだ。
「僕は事件の記憶を丸々失っているんだ」
「うん、知ってる。あの日嗣尊って子から聞いた」
さっきも聞いたけど、僕らよりも先に日嗣姉さんがここに来ていた事に驚いた。しかも秋頃というと僕らが木田監督の下で映画製作に協力していた時期だ。確かあの頃は、日嗣尊の代役として、元星の協会の「女教皇」さんであり、心理部の新入部員でもある「留咲アウラ」さんが僕の前に現れた頃だ。僕にはアウラさん経由で間接的に動くなと警告していた癖に、自分は単独で天野樹理に会いに行くという無茶をしていたのだ。僕らの目すら欺いて。
「日嗣さんは他に何か言ってました?」
呆然としている佐々木さんを尻目に、エレベーターの両扉が閉まり一階へと進み出したのだが、すぐ下の階で停止し、人が乗り込んでくる。どこかで見た事がある。あ、この人、マイケル=ジャクソンの生まれ変わりを自称する社会に疲れ切った中年男性のマイケルおじさんだ。
「ややっ、お主はムーンウォークの小娘では無いか。樹理ちゃんとは会えたのかい?見たところ怪我を負って無くて良かった……って!よく見たら全身包帯だらけじゃないか!?」
杉村が「テヘッ!」とチャーミングに舌を出してごまかす。その手には銀色の銃が握られているし、僕の後ろにはその天野樹理が背負われているんですけど、よく見てっ!?
「むぅ。まぁ、生きてここを帰れただけでも良しとするんだよ」
マイケルおじさんが1階ボタンを押すと、ゆっくりとエレベーターの両扉が閉まっていく。天野樹理がかまわずに話を続ける。
「日嗣って女の子は、しきりに北白直哉と同じ場所にいた少年の事を聞いていたわ。そして何かに納得した様に頷いてた。交換条件で、静夢お姉ちゃんの現在の事は聞いたの。君達の事も少しね」
違和感に気付いたマイケルおじさんが僕と岩井さんの方を振り向く。
「岩井殿?どうされました?そんな幼い少女の様な声を出されて。全く似合わない……ですぞ?」
マイケルおじさんが僕と話すために顔を出した天野樹理の存在に気付く。数秒の現状確認後、閉まりかけてた扉に向かって必死に【開く】ボタンを連打する。
「Help Me!」
その甲斐空しく、扉が閉まり、僕らと一緒に一階へと同行する。マイケルおじさんが息を飲み、後ろを何回も振り向く。
「助けて神様!なんで!なんでこんなとこに天野樹理ちゃんがっ!が?!」
杉村の銃口がマイケルおじさんのこめかみに突きつけられ、カチリとマグナムリボルバーの撃鉄を起こす。
「ろっくん。人質確保!」
人質を救出したみたいに言ってるけど、人質をとった方だからね。
「何?このおっさん。私と静夢お姉ちゃんの邪魔するなら殺すけど?」
天野樹理に再び狂気が宿る……って!ONOFF自由自在なの!?狂気から解放されたんじゃないのかよ!マイケルおじさんの顔から冷や汗が止まらない。パニック状態に陥ったマイケルおじさんは両耳を塞ぎながらマイケルのメドレーを歌い出す。本当にごめんなさい。
「日嗣さんの事はどうでもいいのよ。あのゲームの敗者だし。君の事を聞きたいの。腑に落ちない点がいくつかあるのよ」
天野樹理が脅すように僕に抱きつく。これ?気に入られてるの?
「君があの事件にあったのは七年前よね?その間あなたは一度もその事に気付かなかったの?」
「う、うん」
「よっぽどの鈍感か、朴念仁ね」
なぜか周りに居る岩井さんと杉村が強く同意する様に頷いている。
「それは否定しないけど、違うんだ。それだけじゃ無かったんです」
「そうね……。あの事件はメディアにも取り立たされて八ツ森で知らない人間はいないぐらいだったはず。一度もその事を君が耳にしていないのは可笑しいものね。まぁメディアで取り立たされるその一端を私は担った訳でもあるけど」
「それも父さんから聞いた。あの事件の最初の被害者が生んだ惨劇に、八ツ森に住む人達は恐怖したんだ。そして第二、第三と事件は繰り返されて……そして、僕とある女の子があのゲームの被験者に選ばれた」
エレベーターの扉が開き、一階に到着する。
「前に出て?マイケルおじさん」
杉村が優しく銃口をおじさんの背中に突きつけて歩かせる。これ、完全に僕らは悪者だよね。最初は気付かなかった一階のフロアーで休憩をしている職員達が僕らの姿を認識すると共に悲鳴が飛び交う。銃と天野樹理に対する恐怖心だった。中庭に差し掛かると同時に中央棟の入口から職員と警備員がこぞって姿を現してくるのが遠目に見える。職員の誰かに警備を呼ばれたらしい。屈強な警備員が先行して6人ほど中庭の対岸に位置する僕らを見つける。中央棟にたどり着くまで100Mほどもある。辿りつけるか?時間はあまり無さそうだ。
「僕さ、あの事件の後、目覚めたら病院のベッドで…….額に傷が出来てて気付いたら保護室に入れられてたんだ。多分、自殺しかねないと思われてたみたいで。でも僕は事件の事を覚えて居なかったから、何が何だが分からなくて」
天野樹理が僕を労るように優しく手を回して抱きしめてくれる。
「そうだったのね……君は僕なんじゃない、君は私なのよ。その時に私と顔を合わせなくて良かったわね。会ってたら確実に殺してた」
「そ、そうですね」
「でも今こうして会えて良かったと思ってるわ」
「僕もです。もし、その事件の記憶が僕にあったとしたら、どうなっていたか分かりません。北白直哉の遺体を目の前にした時、事件の記憶が少しフラッシュバックして、近くにいた杉村の首を両手で締めてしまったんです」
背中越しに天野樹理さんの温もりが伝わってくる。
「あなたも辛い思いをしたのね。そんな記憶、一生思い出さない方がいいわ」
杉村と岩井さんが苦しそうに顔を伏せる。
遠くの方で僕らを呼び止める警備員の声がだんだん近づいてくる。
「失礼するよ、お嬢ちゃん達」
その僕らの隙を突いて、マイケルおじさんが遠くの方でこちらに向かってくる警備員さん達の方へと駆けていく。中庭に置きっぱなしにしていたラジカセまでしっかりと回収し。残念ながらここまでらしい。さすがにあの大人数を相手には出来ない。
「僕の記憶が戻らない方がいい。そう考えたのは僕の父親も同じだったみたいなんだ」
「どういう事?確かに、君の事は町の皆は知っている。けど、君だけがそれを知らないという事とどういう繋がりがあるの?」
僕らは逃走を半ば諦め、歩みを止めてしまう。可能な限り天野さんと話は続けたいと思う。
「僕の父、石竹白緑は、服役中にも関わらず八ツ森市に住む人達の民家を訪ねて、一人一人に頭を下げて回ったんだ。一人残らず。杉村のお父さんも協力兼監視役として同行して回った。この八ツ森に住む当時82万人一人残らず「自分の息子、石竹緑青にだけは事件の事を話さないで下さい!」って頭を下げて回ったらしいんだ。3年も掛かったらしい」
「服役中ってどういう事?」
杉村が構えていた銃を降ろし、僕の横に移動するとそっと肩を寄せてくれる。
「僕の母は父に刺し殺されたんだ。父は僕の事も刺そうとしたけど、母のお腹に刺した包丁が抜けなくて、僕を殺し損ねたんだ。新聞の記事についてもそう……あらゆる記録を抹消して貰ったらしいんだ。恐らく杉村のお父さんの協力もあったと思うけど。石竹家は資産家とはいえ、報道の自由をねじ曲げられる様な権限は持ってないからね。だから、今現在、僕の被害にあった事件の記録はこの世から消えてるんだ。僕が殺した、一人の女の子の生きた記録と共に。僕が殺した女の子は二度死んだ。僕に命と生きた痕跡を。だから僕は……」
「……思い出したいのね。それがどんな悲惨な記憶であったとしても。その子を居なかった事にはしたくない」
「はい。僕が思い出せばその嘘も意味が無いですからね」
天野樹理が自分自身の事の様に震えながらしがみつく。
「君はそれに耐えられるの?」
僕はしばらく考えた後、ゆっくりと答えた。
「わかりません。事件の事実を知っただけで罪悪感に押しつぶされそうになりました。女の子を殺した記憶が蘇ってしまったら耐えられないかも……」
杉村が片手で軽く僕を抱きしめてくれる。
「それは私達の罪。半分は私が背負うよ?」
「いつもありがとう。でもこれは僕の問題だから」
杉村の罪とはなんだろうか。そんなもの無い様な気はするけど。
「天野樹理さん」
「何?かしら?」
「多分、貴女の件が無ければ父はこうもあっさりと町の人達の合意を得られる事は出来なかったはずです。八ツ森の人達は先の事件で変わり果てた貴女の姿に深い悲しみと怒り、絶望を覚えた。だから、僕の事だけでも町の人達は救おうとしてくれたんです。一人の女の子を犠牲に捧げてまでついた「たった一つの優しい嘘」です」
天野樹理さんが僕に背負われたまま強く抱きしめてくれる。
「ここまで生きてきて、お礼を言われたのは初めてよ。バカ。好きになっちゃうじゃない」
「フフッ、ありがとうございます」
するりと僕の肩から降りる天野樹理。長い髪が艶やかな尾の様に揺れる。スカートの乱れを直すと、足の具合を確かめながら足踏みする。その左手は鳩尾を押さえて顔を歪めているのでまだ完全には回復していない様だ。右手のダメージも残っている。鳩尾を蹴られれば死ぬことも有り得る。体重が軽いのが幸いしたのかも知れない。小さなか細い手を伸ばして、僕の包帯で巻かれた方の手を握る。
「ごめんね、私の性で。今日はありがとう。話せて良かった」
「僕もです」
天野樹理が手を組み替えて優しく僕と握手を交わす。
「じゃあね」
「はい」
50mほど先まで警備員が迫ってきている。もう逃げられそうもない。出来れば、天野樹理さんを荒川先生の所まで連れて行ってあげたかったな。天野さんと手を離し、自分の包帯に巻かれた右手を眺める。もう天野さんが自殺をはかる様な事は無いだろう。それならこれぐらいの犠牲、安いものだ。ふと耳に音楽が流れ込んでくる。この曲はまさか……?
「あっ、天野樹理さん。一つ言い忘れてました。母は命をかけて僕を守ってくれたんです。父は息子の為に全世帯に頭を下げて回りました。そして八ツ森の人達は文句も言わず、この7年間ずっと沈黙を守り続け、僕の平穏な日常生活を影から見守っていてくれていました。今、こうして僕がここに立てているのは僕が愛されていたって証拠なんです。僕自身は愛というものを肌で感じる事は出来ませんが、行動の結果としてそれを知る事は出来ます」
「そう……えっと、何が言いたいの?愛され自慢?」
「いえ、その……僕だけじゃ無いって事です。貴女もきちんと愛されていたって事です。寧ろ前例に貴女がいたからこそ、僕は町の人たちから助けられていたんです」
「何言ってるの?私は愛されていない。世間から疎まれ、畏れられ、避けられてきた。愛された記憶なんて……」
「行きますよ、樹理さん!ハニーちゃん、援護を!」
突っ立っていた天野樹理さんを、無理矢理背負い直して再び足に力を入れる。
「え?ちょっ!?もういいわよ!?どうせ私は捕まって保護室に戻されるだけなんだから。それより、君達への処分の方が心配。今ならまだ逃げきれるはず」
「そんな事、気にしないで下さい!僕らにもまだ何かやれるって事を証明してやります!」
「どうしたの急に?すぐそこまで警備員は迫っているのに。まだ何かやる気?」
僕らの両脇に来訪時に中庭で仲良くバトミントンをしていた麻也ちゃんと茜ちゃんがいつの間にかラケットを手にして僕らを真っ直ぐ見つめていた。
「今日のマイケルおじさんの総評は?」
「うーんとね、満点だね」
「そうだね。初めての100点満点だね。誉めてあげないとね」
二人の女の子のラケットの先が僕らの目の前を指し示し、その鈴の様な綺麗な声が重なる。
「「求めよ、さらば、与えられん」」
そうだね、与えられるのを待つだけじゃダメだ。自ら進んで求める事が大事だ。
「ありがとう。君達」
「「うん。元気でね。お兄ちゃん。樹理ちゃんを宜しくね?」」
岩井さんが状況を把握出来ずに首を傾げている。杉村はいち早く気付いた様で再び僕らの通り道を確保する為に先行する。遠くからはあのマイケル=ジャクソンの大ヒット曲「スリラー」が大音量で流れてくる。
「樹理さん、貴女はここの人達に愛されていたんです」
曲と共にあらゆる病棟から患者さんが流れ込んで来て、僕らに追る警備員や職員との間に大きな壁を造る。それはまるで雪崩の様に僕らの進むべき道を開けてくれる。再び駆け出す僕ら。大病院の中庭で職員と患者とが真っ向にぶつかり合う。BGMには大音量のスリラーが流れている。先頭では必死にマイケルおじさんが大声で職員の足止めに死力を尽くしてくれている。あんた達、ホントにすごいよ。
「いくぞ!ハニーちゃん!荒川先生にお届け物だ!」
「はーい!ワレモノ注意だねっ!」
僕らは再び走り出した。
先行してこっちに向かって来ていた警備員6人の内、5人は患者さん達が押さえてくれている。その合間を縫って警備員の一人が僕らの眼前に迫る。目的は天野樹理らしい。一人ぐらいなら僕でも何とかなる。杉村が銃の標準を警備員に合わせる。銃弾は温存しときたいので杉村には撃つなと合図を目で送る。僕は両手にトランクケースの握り手を握りしめてそれを一周振り回す。
「樹理さん!掴まってて!」
「うんっ!」
僕の目の前で飛びかかろうとした警備員が予想通り、杉村の銃に気付いて動きを僅かに止める。そこに一回転して遠心力をつけた僕のトランクケースが勢いよくぶつかると、そのまま横に転がってしまい、患者さん達の大きなうねりに飲み込まれてしまう。ざっと計算して患者さんの数は40人以上出てきていると思う。
「ろっくんさんナイスです!」
懲りずに後ろを付いて来てくれる岩井さんからエールを送られる。すれ違う患者さんからは天野樹理さんに対する別れのエール(?)が絶え間なく送られている。
「(超レアじゃ!あれは天野樹理ちゃんじゃ!ありがたやぁ!)」
「(行け!樹理ちゃん!)」
「(あんなとこに閉じ込めた奴らに思い知らせてやれ!)」
「(君、天野さんを宜しくね!?)」
「(樹理さん!あとでサイン下さい!)」
「(キターッ!!深淵の少女再臨!間近でお顔を拝見出来るとは!)」
「(何あの金髪の女の子!?超美少女なんだけど!)」
「(天野ちゃん!なんだかよく分からないけどお元気で!)」
「(祭りだ祭りだ!)」
「(喧嘩だ!喧嘩をしようぜっ!)」
ほとんどお祭り騒ぎだな。こんな底力が患者さん達にあったとは思わなかった。喧噪の中を僕らは少し蛇行しながら目的地を目指している。天野樹理さんが笑いながら僕にしがみつく。
「フクククッ!何これ?ねぇ、何なの?」
「分かりません!けど、捨てたもんじゃないでしょ?」
天野樹理さんが小さく「そうね」と囁くと、僕の背中から身を乗り出し、拳を大きく天に向かって突き出す。大きく息を吸い言葉を放つ。
「見せつけてやりましょう!私達の底力をーーっ!!」
天野樹理の檄が飛び、中庭に居る人達を元気付ける。ここでバカ騒ぎしている連中は恐らく目的を分かっていない。先頭で警備員相手に揉みくちゃになっているマイケルおじさんの先導だろうが、その状況をふまえつつこうした檄を送れる人間はなかなか居ない。理屈では無く、感情で人を多人数動かせる。それも才能の一つだと思う。天野樹理があの保護室に匿われていた理由はたった一つの点に限る。人に危害を加える点だ。それが無くなった今、もう彼女をあの檻に閉じこめている理由は無い。でもそんな事は多分、堅物な大人達には通用しない。中庭の半分の距離を進み、中央棟、待合い室がある病棟の入口まで迫る。僕らの姿をずっと目で追ってくれていたマイケルおじさんの声が背中から聞こえくる。
「進め!心に傷持つ仲間達よ!天野樹理ちゃんを宜しくな!グッドラーック!」
天野樹理が後ろを振り返り、お礼の言葉を述べる。
「ありがとう。名前も知らないおじさん!」
もうすぐ、もうすぐだ!諦めかけた僕らに最後のワンチャンスをくれた人達の思いに答える為にも僕らは任務を完遂させなければならない。病棟の入口を塞ぐ様に若い男の職員さん達が横一列に並んで僕らを待ちかまえている。先行していた警備員は解放棟の患者さん達が全員動きを封じてくれている。
「ハニーちゃん、セット」
杉村が前方に銃を構える。それに気付いた職員達が一斉に怯えて構えをとる。その隙に、トランクケースの中を開いて牛乳二本を取り出すと空高く放り投げる。
「ミルクは体にいいんだぞぉ!!はにーフレッシュ3.7!!」
放射線状に放り投げられた牛乳パック2本をそれぞれ綺麗にマグナム弾で破裂させる杉村。その衝撃で辺りに牛乳がまき散らされ、発砲の音と共に降り注いだ白い液体に体を硬直させる職員達。後ろを守っていた岩井さんが素早く先頭に踊り出ると入口を塞ぐ数人の看護師の襟首を掴んで、脇道に放り投げていく。この人もすごいんですけど。
「ここを抜ければロビーです!ろっくんさんと杉村蜂蜜さん!樹理さんをお願いします!」
横を向くと、天野樹里さんが僕の背後から顔を出して何かを言いたげにしている。顔が近いので少し照れる。
「(樹理さん、勇気を出して)」
「(う、うん)」
僕の言葉に反応してこちらに向き直るので目と鼻の先に樹理さんの小さな顔が迫る。こんな状況下で顔を赤くする僕ら。目の端に岩井さんが起きあがろうとしている職員達にフライング・クロスチョップをお見舞いしてダイブしている姿が映る。やっぱりすげーな。
「あのね、岩井さん!」
天野樹理の声に気付いた岩井さんが驚いた様に顔を上げる。お尻の下に職員さん達を敷きながら。中央病棟の入口の扉に差し掛かり、天野樹理さんと岩井さんがすれ違う。お互いの顔を見つめたまま。
「長い間お世話になりましたっ!貴女の事は好き!忘れないよ!私、脱走します!」
岩井さんは驚いた様な顔をして、去り行く僕らをしばらく眺めた後、微笑みながら拳を突きだし、親指を立てる。
「私達も、貴女の事が大好きだったよ!可愛くて、純粋で、聡明で、本当は優しい君の事をっ!また会いましょう!ろっくんさんは後で貴重品をお届けに参ります!ご安心を!」
どこまで出来た看護師さんなんだろう。天野樹理さんは後ろを向きながらいつまでも手を振っていた。あれ?杉村はどこだ?病棟への入口へは僕らの方が先に入ったようだ。やばいな。道を開いてくれる人が居ない。
ほとんどの動ける職員が中庭に出て行った様で通路人はそれほど多くない。単騎で通り抜けられるか?体を軽くする為に、杉村のトランクケースを通路の脇に降ろすと、人と人との間に僅かに出来そうな隙間を予測する。ここまでの大人数の動きを同時に把握し、予想するのは初めてだけど。
「体勢を変えます。しっかり掴まっていて下さい。天野樹理さん。待合室までもう少しです」
数百Mほどある大きな通路を抜ければ、受付のロビーだ。待合室はそのすぐ隣にある。天野樹理さんを背中から前に抱き抱えて、お姫様だっこの様な体勢に変える。深く息を吸い込み、大きく息を吐き出し、集中力を高める。理性よりも本能を。自分の感覚を研ぎ澄まし、その領域を大きく拡張するイメージを頭に強く思い受かべる。これは杉村おじさんから習った自己暗示にも近い戦う為の準備。感覚を研ぎ澄まし、感覚を拡張する。戦闘力のほとんど無い僕でも出来る事がある!
息を潜め、足に力を入れて通路を行き交う人になるべく気付かれない様に人と人との隙間、視線を甲斐潜って音も無く合間に滑り込んで行く。僕が素早く横切ると数秒遅れて人々が僕らに気付く。
右へ左へ斜め下へ、斜め上へと身を捩りながら通路を走り抜けている。視野を全体に広げて足の筋肉の動きを観察しつつ、その一歩先を読みとり、衝突しない空間を予想し、そこを針に糸を通す様に駆け抜けて行く。杉村は逆にこういうのは苦手だ。先手に見えるような行動も、実は全て後出し、もしくは勘で動いている。杉村の場合はそれで問題ない。後に動き出しても爆発的な身体能力がそれを余裕で凌賀出来るからだ。それを僕は出来ないから、先に読んで先手を打つ。これ、すごい疲れるけどね。心臓に負荷がかかっているのか、少し息苦しい。天野樹理を抱えたままここまで走ってきた疲れも出てきたのかも知れない。
通路をもうすぐ抜けられと確信したその先、十人以上の研修医を引き連れたあの「海原教授」が僕の前に立ちはだかるのが見えた。このまま行けば、確実に通路を抜けきれない。速度を落とさず、そのまま突っ切るか?体当たりすれば天野樹理だけは通路の向こう側に届ける事が出来るかも知れない。でも、天野樹理を一人解放すれば、すぐさま職員に囲まれて捕らえられてしまう。どうする?
「ろっくーーーーーーーーーーーーんっ!!!!」
遙か後方から杉村の呼びかける声が聞こえてくる。ナイスタイミング!