二枚の新聞記事
自分の心臓に向かってナイフの刃を滑らせるが、私の心臓にその刃は届かなかった。ナイフの切っ先が微かに胸部に触れている感覚はあるがどういう訳かそれ以上進められ無い。目をそっと開けると第四の少年がそのナイフの刃を素手で握りしめている。その少年の血がナイフの刃を伝い、私の心臓に流れ込んでくる。私は死に損ない。どうして君は私を生かそうとするの?
僕の背後で看護師の岩井さんと杉村の小さな悲鳴が起こる。狂気を感じなくなったので安心していたけど、危なかった。一歩遅れていたら天野樹理さんは確実に死んでいた。ナイフの刃の部分を素手で握る嫌な感触に寒気を覚えながらじわじわとやってくる痛みに堪える。刃先を動かされれば只ではすまないが、そんな事言ってられる状況ではない。幸いな事に天野樹理さんはナイフに力を込める様子は無いよう……だ?あれ?少しずつ、少しずつ、天野樹理さんの心臓に刃先が挿し込まれていきそうになる。僕の掌と指から流れる血の量が比例して増えていく。鳩尾をまともに蹴られて身動きの取れない彼女を突き動かしている思いとはなんなのだろう。
「どうして貴方は私を死なせてくれないの?」
杉村が近くに置かれていた茶色いアタッシュケースを蹴り上げ、蓋を開ける。底の敷居を素早く取り外し、義姉さんから譲り受けた銀色のダガーを素早く振り上げる。その間約3秒。
「腕を切り落とすよっ!?」
杉村が天野樹理に叫ぶが、恐らく無駄だ。死のうとしている人間に脅し文句は通用しない。それが通用するのは根底的に生きようとしている人間にだけだ。手を止めようとしない天野樹理に対してダガーを振り下ろそうとする杉村。その間に岩井さんの体が割って入る。その両手が刃を握る僕の手と天野樹理の左手を優しく包み込む。
「天野さん!止めて下さい!」
天野の動きが僅かに止まる。
「どうして貴女が止めるの?私は医者や看護師達を何度も殺そうとしたのに?」
「現に死んでません!多分!天野さんが本気で私達を殺そうとしなかったからです!」
天野樹理の表情に初めて焦りが浮かぶ。
「嘘よ!私は生きる為に他者を殺そうとしてきた。だからあなた達も殺そうとした!」
岩井さんの額に汗が滲み出す。僕の手には力をかけずに天野樹理の左手にだけ必死に力を加えている。引き戻そうとしないのは僕の指が切り落とされない為だ。さすが看護師さんである。刃の特徴を熟知している。相手がどうでもいい悪人なら空いている手で顔面を殴打して気を失わせるのが手取り早いが、そんな訳にはいかない。この僕の握力でどこまでこの状態をキープ出来るかも分からない。ここは名だたる病院だし、最悪、僕の指ぐらいは繋げられそうだけど、心臓に傷を負うのだけは避けたい。天野樹理は事件の貴重な情報を僕達に与えてくれた。だから、次は僕らが与える番だ。看護師の岩井さんが必死に天野樹理を説得しようと試みる。
「バカッ!私達もここに居たんですよっ。11年間も貴女と向かい合ってきたんですっ!保護室に閉じこめてしまったのは単に私達の力不足ですっ!でも、少しでも詫びたいと思うなら!簡単に死のうとしないでっ!生きる理由が無いなら、私達の為に生きて下さい!天野樹理さんっ!」
ナイフに込められていた力が少し弱まったのを感じる。それと同時に岩井さんがナイフから手を離して、両足を投げ出している天野樹理を前から抱きしめる。
「そして申し訳ありませんでした!私達大人は天野さんに恐怖心を抱き、真正面から向かい合う事に怯えていました。多分、この方達が現れなければこの先もずっとここに貴女を閉じ込めて……」
天野樹理の目から一筋の涙が流れる。
「こうやって抱きしめて貰えたのは……久しぶり。でももう遅いの。殺そうとした私を正面から抱きしめてくれたあの人はもうここにはやって来ない!」
天野樹理の手に再び力が込められようとする。僕の手の握力も指も限界が迫っている。これ以上、刃を握りしめていたら指を落とされそうだ。離す気は無いけど。どうする?どうすれば自殺しようとする彼女の思考ルーチンを変えさせる事が出来る?
「違うの!待ってるの!」
杉村が叫ぶと、ナイフの刃先が止まった。
「待ってる?私を?誰が?」
杉村が銀色のダガーをその場に投げだして、空いた手を天野樹理の左手に優しく添える。力ではなく自分の気持ちを注ぎ込む為に。
「荒川先生はね、ずっと樹理ちゃんの事を待ってるの。今も!」
「そんな、嘘よ。私は家族にも見放され、唯一、私に面会に来てくれていた静夢お姉ちゃんも殺そうとした。だから愛想を尽かされた。もう誰もいない。私をこちら側で待ってくれている人は1人も居ないの!だから死ぬの。人を殺した私は人の道を外れた人間。生きている人間と会う資格なんてもう無いの!どこにもっ!」
天野樹理の表情が悲痛なものに変わる。けど、それは本来の自分の感情を取り戻している兆候とも言える。彼女の苦しみの根元は恐らく人を殺してしまったという罪悪感だ。それを心に認識させない為に狂う必要があった。けど、彼女の心は狂気に完全に支配されてはいなかったはずだ。
「天野……樹理さん。貴女は気付いてないかも知れませんが……」
「何に!?」
天野樹理が縋るように僕の瞳を覗き込む。
「あなたがどうしても殺せなかった人間が居るはずです」
「ふざけないで!私の中で生贄ゲームは続いているのよ!本気で殺そうとしてたわ!全員ね!ここの教授も看護師も!全員、殺す機会を伺ってた!」
僕は天野樹理が数々の人に与えた傷を思い出す。それはどれも避けたり、防がなければ致命傷に繋がる箇所ばかりが狙われていた。普通に考えれば天野樹理の他者に対する殺意は本物だ。けど。
「違いますよね?全員では無かったはずです」
「何が!?私はあの生贄ゲームの呪縛に取り付かれた狂人!そんな理性なんて消えて無くなって!」
「一人だけ例外が居ますよね?」
天野樹理の動きが止まる。必死に思い当たる節が無いか記憶を探っているが、見つからないようだ。
「荒川静夢先生です」
「なんでそうなるのよ!私は!何度も静夢お姉ちゃんを殺そうとした!だから怖がられて何処かへ行っちゃって!」
僕は首を横に振る。
「他の人間は首や心臓、致命傷を狙った傷跡ばかりだったけど、荒川先生への傷は腰周辺を浅く傷つけられている程度だった。痛みは伴ったはずだけど、死には絶対に至らないはずです。狂気に覆われたあなたの心の片隅で最後に残った天野さんの理性が大事な人を必死に守ろうと足掻いてたんじゃないんですか?」
天野樹理が何かに気付いた様に、ナイフを握る自分の手を見下ろす。そしてゆっくりとナイフに込められていた力を解く。岩井さんが杉村に手を離すように指示して、天野樹理の手をゆっくりと解いていく。その手が離されると力なく天野樹理の手は床に投げ出された。
ナイフの刃先を握る僕の手を慎重に刃から引き剥がしていく岩井さん。
小さなナイフが音を立てて床に転がると同時に、岩井さんがすぐさま僕に応急処置を施してくれる。
「無茶をしすぎです。ろっくんさん」
岩井さんの怒った顔から目を背ける様に横を向く。杉村は心配そうに僕と岩井さんの回りを忙しなくウロウロしている。
「けど、助かりました」
岩井さんが微笑みながら僕の頭を撫でてくれる。床に落ちたナイフを回収していく杉村。血のついたものはハンカチで綺麗に拭き取っている。アタッシュケースにダガーも収納したようだしこれ以上天野樹理の手に凶器が渡る事は無いだろう。天野樹理の目に生気は戻っている。正気に戻った証拠だろうけど、罪悪感に押しつぶされてしまう前に僕にはやらなければならない事がある。ナイフの刃先を握った右手を岩井さんに預けながら僕は再び天野樹理さんと向かい合う。臨床心理士のランカスター先生が言っていた。大事なのは医者が患者とどれだけ向き合ったか。それが何よりも大事だと。そして同じ事件被害者だからこそ、天野樹理に届くものが僕の中にもあるはずだ。
「天野樹理さん……」
天野樹理が顔を上げて僕の方を見る。
「樹理でいいわ・・・・・・一応20歳で大人だけど、見た目は小学生みたいだって自覚しているし、私の時計は小学3年生で止まっている様なものだから。まだ何か用かしら?面会時間はとっくに過ぎてるわよ?もう死ぬ気も殺す気も失せたから出ていってくれないかしら?」
「樹理……さん。君は僕です」
天野樹理が怪訝な顔で僕を見つめる。
「僕も君と同じ目に合いました」
天野樹理がため息をついて口を開く。
「そんな事知ってるわよ。秋頃に訪れてきた第三の生贄ゲームの被害者に聞いたわ。あなたもその事件の被害者で、事件当時の記憶を丸々失ったって……聞いたわ……よ?」
天野樹理が驚いた様に目を見開く。
「その事を君は知らないはずでしょ?」
僕は微笑みながらそれに答える。
「僕は7年前、一人の罪の無い女の子を殺害しました。自分が生き残る為に」
天野樹理が息を飲む。
「君の事はそういう風には聞いてない。四回目の生贄ゲームに生き残った男の子で、その事件の記憶を完全に失っているとは聞いたけど」
「僕も生き残る為に、人を殺したんだ。だから君と同じ殺人者なんだ」
僕はポケットから二枚の新聞の切り取りを天野樹理に見せる。古くなって黄ばんでいる昔の記事だ。
*
【八ッ森市連続少女殺害事件の終結?】
2005年5月8日、東京都八ツ森市西岡町に住む当時36歳無職の「北白直哉」は、同市内の雑木林にて少女「佐藤浅緋」(9歳)を殺害、現場近くに居たとされる少年「石竹緑青」(10歳)にも軽傷を負わせたとして警察に逮捕される。身柄の引き渡しについては、一般の男性会社員から警察に引き渡される。その場の状況証拠、本人の自供等から日本警察では彼が一連の少女殺害事件の犯人と断定。法廷では、一連の事件の被害者、少女4人に対する殺人罪から無期懲役の判決が一度下されるが、重度の精神障害が明らかになり、その身を更生施設に移送される。
*
【八ッ森市連続少女殺害3件目の真相?】
2005年6月15日。北白直哉(36)容疑者が引き起こした四件目の八ツ森市連続少女殺害事件にて新たな事実が発覚する。生贄ゲームと呼ばれる一連の事件の流れから、時間切れにより、佐藤浅緋(9)さんが殺害されたという見解が警察によりなされていたが、司法解剖の結果、死因は同じ被害者少年である石竹緑青(10)さんの手による絞殺という事が判明した。事件の背景や詳しい経緯については現在捜査中である。
*
「これがどうしたっていうの?君の事が書かれた7年前のただの記事じゃない」
天野樹理が確認の為に、何度も裏返してただの新聞の切り抜きである事を確認する。
「僕さ、そこに居る金髪の女の子、僕の幼馴染が遭遇した事件を調べようとしたんだ。僕らの教室が荒らされて、その犯人がこの事件と何らかの関わりがあると思って」
天野樹理が納得した様に新聞の記事を僕に返す。
「図書館やインターネットを使えば、私と貴方が被害にあった北白直哉の生贄ゲームは調べる事が出来るもんね。そこでその記事を見つけたってわけね」
「この記事は父親から受け取ったんだ。過去の新聞やネットでも"八ツ森市連続少女殺害事件"は調べたんだけど、僕の事は書かれていなかった。記録では4件目が起こる前に、僕の幼馴染が山で北白と鉢合わせし、追いかけられ、父である杉村誠一さんが犯人を確保したってなってる」
僕の言葉の意味をよく考えながら吟味している天野樹理。そこにこの保護室の外側の扉を叩く音がする。そこには男の看護師が二人、こちらを見下ろしていた。
「岩井さん!?何があったんですか?!」
保護室の内側で僕と杉村と看護師の岩井さんが天野樹理と直接面会しているのはさすがにおかしいと思われたらしい。面会時間はとっくに過ぎているし、監視カメラでこの状況を報告されたようだ。予想より時間は稼げたからよしとするか。岩井さんが慌てて立ち上がり、扉を開いて他の職員に説明する。今が頃合いかも知れない。
「杉村、今から天野樹理救出作戦を実行する」
杉村が再びアタッシュケースを開く。そして僕は背中を天野樹理に向ける。
「もう少し、話がしたいんだ。それに君をここから出したい」
「何を言ってるの?そんな事したら貴方達が捕まるわよ?」
杉村からのダメージで動けない天野樹理を優しく背負う僕。
「掴まれる?」
包帯の巻かれた右手で天野樹理のお尻持ち上げる。
「う、うん。本気なの?君達?」
杉村がアタッシュケースから銀色に輝く銃を取り出し、構える。
「ろっくん、こっちはいつでも準備OKだよ?」
杉村のアタッシュケースを閉じて、僕は空いている左手でその持ち手を握る。
「それ、本物よね?鉄と火薬の匂いがする。それより、私の事はほっといてよ、私がここに居る方が世間の為に……」
「僕らの目的地は、この病院のロビーまでだ。そこからは君自身が決めればいいと思う」
「訳分かんないわよ。ロビーまでって、そんなとこここから辿り着いても、何も変わらないでしょ?どうせ連れ戻されて終わりよ」
「今日、偶然だけど、いや、本人がそう望んだからなんだけど、ロビーで待たせている人がいるんだ」
「何を言って……それにさっきの君の話はまだ途中でしょ?」
「移動しながら話すよ。ちなみに待ってる人は君の一番会いたがっている人だよ」
僕の両肩にしがみつく天野樹理の手に力が込められるのが分かった。
「静夢お姉ちゃん?」
「ご名答。さぁ、行こうか。君の止まってしまった時間を進める為に!」
「うんっ!」
力強い返事が天野樹理から発せられる。僕らの覚悟は決まった。この病院に足掻いて見せつけてやろう、僕らがもう自分の足で立って歩けるって姿を。
足掻け、傷持つ少年達よ。