第一の少女
ついにあの事件の最初の被害者と面会が叶う。ここまで導いてくれたのは他でもない、退行する前の杉村自身だ。ありがとう。
「御武運を……」
面会に来た人間に送るエールでは無い様な気がするが、その言葉が相応しくも思えた。手慣れた手つきで施錠部に番号を入力し、胸ポケットからカードを取り出して開錠する岩井さん。左右に扉が開いて僕らを誘う。深淵に立たされた様な錯覚を感じながら。冷暖房が完備されているはずの室内はすっかりと冷え切っている。どうやら空調設備を切っているようだ。
「閉じます」
深淵の扉が閉じられ、背後で自動的に施錠される音がする。
「もしもの時の為に私も同席させて頂きます」
岩井さんの暖かい手が僕の背中にそっと触れる。杉村の様子を見るとわずかに震えている。
「ろっくん、寒い」
「そっちかよ!」
杉村が首を振る。
「違うの。ここに居ると、心が、凍えてしまいそうなの」
僕よりも感受性が高い杉村は常人以上に天野樹理さんから何かを感じとっているらしい。扉の中に入った先には、狭いスペースを区切るように鉄格子が設けられている。その鉄格子の向こうにはこちら側から見て、手前の右側に小さな洗面所、その奥に本棚と小さな絨毯が敷かれたスペースが。左側手前には小さな便器が設置され、腰ぐらいまでの小さな仕切の向こう側、少し離れたところに白い大きめのベッドが設けられている。
僕は息を飲み、そのベッドの上で外の景色を眺め続けている彼女に声をかけた。
「天野……樹理さん?」
外を眺めている彼女の黒い髪は伸ばし放題で小柄な彼女の背丈ぐらいあるように思えた。服装は至ってシンプルで、白いタートルネックの長袖に、腰の辺りで折り返しのついた厚手の深緑色のワンピースを着用している。そして何より目を引いたのが、両手を背中で拘束されている点だ。声をかけても一向に返事が無い。そもそも息をしているのかも怪しいほど静かに空を眺めている。
「あの拘束具は外せないんですか?」
岩井さんが頷く。
「恐らく、別の看護師が着用させたんだと思います。今日、面会に人が来ると聞いて何かあった時に、病院側の責任問題になるのを恐れて着用させたのかも知れません」
「とれないんですか?あまりにも可愛そうに見えて」
「取ることは可能ですが、今、中扉を開ける事に私は危険性を感じます」
そんなやりとりを聞いてか聞かずかいつの間にか天野樹理の姿はベッドの上から消えていて僕らの目の前に立っていた。
「寒いのは節約の為……」
ボソリと声が聞こえた突然の出来事に、僕と岩井さんはその場で腰を抜かして、尻餅をつく。杉村だけはいつでもスカートの下に隠しているナイフをとれる構えを崩さなかった。
僕の目を覗き込む天野樹理。その眼は深い深い闇を思わせるほど、黒く鈍く、吸い込まれそうになる。顔の造り自体は20歳とは思えないほど童顔、小顔で、杉村よりも一回り幼い印象を受ける。まるで9歳から時が止まっているかのように。大きな瞳に小さな鼻先、花の蕾の様な薄い色素の唇は儚げな薄幸の美少女を思わせる。しかし、不眠状態なのかその目元には濃い隈が現れ、その点において普通ではない空気が彼女から漂っている。こちらが彼女を観察すると同時に、彼女自身も僕の事を虚ろな瞳で観察していたようで、それが終わったのか、興味無さそうに別の方向を向く。それに伴い、長すぎる黒髪がゆらりと空を舞う。
拘束具の両端から覗いている両手を器用に使い、スカートを上げると、小さな水色の下着がストンと足下に落ちる。
「へ?」
そして音もなく、するりと便器に腰掛ける。ワンピースのスカートの後ろが便器につかないように体をもぞもぞ動かして用を足し始める。水が流れる様な音と共に、こちらを凝視してくる天野樹理。岩井さんが慌てて、僕の両目を両手で目隠しする。杉村も慌てて僕の両耳を塞いでくる。
あわわわわっ!と慌てふためく僕らを面白いものでも見るようにクスクスと小さな女の子の様な声が闇の底から聞こえてきた様な気がした。トイレの流れる音を杉村の両手越しに聞き取る。どうやらトイレタイムが終わったようだ。
岩井さんと杉村が安心した様にその手をどけてくれる。
目の前をチカチカさせながら視点を定めると、目の前に天野樹理が無表情で立っていた。
「上げてほしいの」
彼女から僕に発せられた最初の言葉は意味不明な言葉だった。
「な、何を?」
天野樹理の真っ直ぐな視線が、下に向く。それにつられて僕も下を向く。そこには足下にそのままになっている水色の下着が絡まったままだった。天野樹理が、背中を向けて両手を拘束具の隙間からヒラヒラさせている。
「こんな手じゃ無理でしょ?1人で出来無い事も無いけど、時間がかかるのよ」
僕を試すような視線が背中越しに向けられている気がする。失敗は許されない。僕はゆっくりとしゃがんで格子越しに彼女の下着に手を伸ばして履かせてあげようとする。
後ろからものすごい勢いで頭をはたかれて僕は鉄格子の枠に思いっきり頭をぶつける。鈍い音が部屋中に響いて再び目の前がチカチカする。
「ろっくんさん!なんて破廉恥な!これは私の仕事ですから!」
岩井さんに後ろから押されたみたいだ。たんこぶ出来た。岩井さんが慌てて中扉を開いて天野樹理の傍に駆け寄る。
「危ない!」
杉村が叫んだ瞬間、岩井さんの体がふわりと浮かんで、近くにあった洗面器に背中を強く打ちつける。苦しそうに呻く岩井さん。下着をずらしたまま、岩井さんの体を踏みつけて、喉元に足の指先を突きつける。
杉村が慌てて鉄格子をスライドさせて中に入ると、岩井さんに手を伸ばす。天野樹理の叫び声が室内に響きわたる。
「動くと喉を潰す!」
その圧倒的な威圧感に杉村が珍しく体を硬直させる。これは杉村の放つ殺気とは別物の威圧感、全てを飲み込む深い闇の様な狂気だ。身動きの取れない杉村に対して、背中を向ける天野樹理。
「これを外してくれたらこの女を解放してあげる」
岩井さんが苦しそうに声をあげる。
「だめ、これは彼女の罠よ」
杉村が躊躇したまま固まる。僕は意を決して杉村に指示する。
「外してやれ。僕らは争いにきたんじゃない。対話に来たんだ」
岩井さんが苦しそうに手をあげて杉村を止めようとするが、杉村も覚悟を決めた様に頷く。拘束具はベルトと鍵が設けられていて、ベルトを外す事が出来ない。鍵なら岩井さんが持っていそうだけど、この事を岩井さんは知らなかった。別の職員が持っている可能性が高い。
「ベルトに鍵が固定されていて解けないよ……」
天野樹理が鼻をひくつかせて提案する。
「なら、貴女のそのナイフで切り裂いてよ?」
杉村と僕の体が強ばる。いつ、彼女はそれを見抜いたんだ?
「どうしたの?早く!」
岩井さんを押しつける天野樹理の足に体重が加わり、呻く岩井さん。
「わかった。ハニーちゃん、彼女を解放してやれ」
杉村が頷くと、ナイフを一本、スカートの下から取り出して彼女の拘束具を一瞬にして解体し、床にそれが落ちる。自由になった両手をぶらぶらさせて、お礼を言う天野樹理。
「ありがとう。金髪のお姉ちゃん」
岩井さんの体から器用に飛び降りると、降ろしていた下着を元の位置まで引っ張りあげる。杉村はその一瞬の隙をついて岩井さんを鉄格子の外に避難させ、内側から格子を閉める。
「早く、鍵をして!彼女、逃げるつもりだよ!」
岩井さんが苦しそうに立ち上がり、鉄格子を再び開こうとするが、向こう側から杉村が押さえているのでビクともしない。
「この子、なんて力なの?だめよ!貴女もこっちに!」
「ダメ!違うの!ろっくんに危険が及んじゃう!そんな気がするの!」
岩井さんがこちらを向く。
「彼女の事を信用してあげてください。大丈夫です、僕らは争いにきたんじゃありません。彼女を救いに来たんです!」
僕等に説得されて、岩井さんが鉄格子に渋々鍵をかける。天野樹理が、扉を押さえている杉村の隙をついて、杉村のスカートの中に手を突っ込みナイフを一本手にする。杉村と天野、両者の右手に小さなナイフがそれぞれ握られている状況になる。
「あなた、なんで私がナイフを隠してるって気づいたの?しかもスカートの中にある事にも気づいてた」
天野樹理がクスクス笑いながらプレート型ナイフの刃先を陽光に照らしている。
「私があの男の子の前に立った瞬間、あなただけは違う反応をした。いわゆる戦闘態勢ってやつ。手がスカートの位置にあったから、そこに何かあるのかなぁって気がして」
あの短時間でそこまで見抜けるものなのか?
「そして何より……」
天野樹理が再び鼻をヒクヒクさせる。
「ずっとここに居るから分かる違いなんだけど、僅かに鉄の匂いが混じっていたの。誰かがナイフか何かを隠し持ってるなって。だから気付けた」
人間の嗅覚でそこまで判別が付くなんて聞いた事が無い。火薬の匂いならともかく、鉄の匂いなんでほとんど無いに等しい。寒気が僕の背中を走る。杉村が警戒して、彼女と距離をとる。
「何?殺し合うの?いいよ?私の得意分野だ・か・ら!」
杉村がギリギリで体をさばいて、心臓に向かったナイフの刃先を避けるが今のは危なかった。杉村も相手の狂気に飲み込まれているのか、本調子では無いようだ。ナイフの刃先が杉村の二の腕を掠め、衣服を切り裂き、赤い血が筋となって染み出す。
「アハッ!すごい切れ味!掠っただけなのに」
間髪入れずに接近してきた天野に対して杉村がその背中にナイフを突き立てようとする。恐らく急所は外すだろうが。天野はその微妙な空気の変動に体を反応させて距離をとる。長い黒髪がまるで影の様に尾を引き、彼女の後を追う。
「すごいすごい!お姉ちゃん!只者じゃないね!大抵の大人は私の最初の一撃で怯えて近づかなくなるのに!反撃しようとしたのは貴女が初めて!誉めてあげる!」
その場でくるくると回り、天野の長い黒髪がリボンの様に彼女の動きに付随する。そこから予備動作無しで杉村に襲いかかる天野。この狭い部屋では距離がとれずに、防戦には不向きだ。それに天野は相手を殺す事に躊躇が無い。対して杉村は相手を生かさず殺さずの間でとらえようとしているので反応に一瞬遅れが生じる。基本的な身体能力では杉村の方が遙か上をいくが、あらゆるマイナス要素が杉村を動けなくさせている。いや、そうなるように意図的に仕向けているのか?
「すごい、すごい!これも避けるの?でも守ってばかりじゃ私を殺せないよ!?ほら!少しずつ貴女の皮膚が裂けて悲鳴を上げてるよ!」
辺りに杉村の血が飛び散り、部屋を赤く染めていく。次々と繰り出される天野のナイフを捌きながらも、体のあちこちに切り傷が生まれていく。
「ろっくん、ごめん!私!私じゃ無くなっちゃう!」
どういう事だ?笑い声を上げる天野に対して杉村の表情は硬く、必死に何かを押さえているようだった。
「だめ!だめっ!貴女は出て来ないで!ろっくんに、ろっくんに嫌われちゃう!」
「変なお姉ちゃんっ!さよなら!」
叫ぶ杉村の喉元めがけてナイフが一閃放たれる。
「ハニーちゃんっ!」
天野の放ったナイフに血が滴る。
「本当に手が掛かる子」
半音低い声が杉村の口から漏れる。
「ハハッ……ハッ?お姉ちゃん誰?」
天野の放ったナイフの刃先を、切り裂かれた拘束具で絡め、握りしめる杉村。刃先を握り締めているので杉村の手からは血が滲み出ている。
「う、動かない!?何?何が起こったの?これ握力?!」
杉村は片手をナイフの刃から離すと一瞬で天野の小さな右手を左手で包み込む。慌てふためく天野が冷や汗を垂らしながら、握られた右手を必死に解こうともがいているがビクともしないようだ。
「どうせ何も知らないわよ、こんな子供。ここで殺すのが世の為。消えなさい、役立たずさん」
杉村の左手に力が込められていき、天野の細い手が軋み、悲鳴をあげる天野。
「いや!痛い!やめてよ、お姉ちゃん!」
痛みに耐え兼ねてナイフを離すとそのまま鳩尾に、杉村の鋭い蹴りが入る。勢いのまま床に転がる天野。これはマズい、もしかしたら、呼び覚ましてしまったかも知れない。天野樹理の狂気に反応して目覚めた、杉村の殺戮本能が。
「岩井さん!僕は杉村の方を止めに入ります。多分、杉村はここで天野樹理さんを殺すつもりです」
岩井さんが青冷めて鉄格子の扉を開く。そのまま中に入ろうとする岩井さんを止めて、僕はあるお願いをする。
「一つ、お願いがあります。杉村の預けてある茶色いケースをここに持ってきてほしいんです。そうすれば事態は丸く収まります」
岩井さんが首を傾げるが、真剣な表情で懇願する僕の顔を見て了承する。慌てて保護室の入り口を開けて監視室に向かう。上手く行くかは分からないけど、やれる事だけやっておくか。鉄格子を横にスライドさせて僕も中に入る。辺りの壁一面に、杉村の流した血の飛沫が痛々しく跡を残している。今も杉村から血は流れている。これは僕の性だ。壁に追いやられた天野が必死に杉村から距離をとろうと足掻く。
「何?何なの?こんな人初めて!あなたは関係無いはずでしょ?私が本当に用があるのはそこの男の子だけなの!そいつを殺さないと、私の生贄ゲームは終わらないのよ!」
「消えろ。クソガキ!」
杉村のトップスピードは僕の動体視力を凌賀する。そのトップスピードを出せるのは殺戮本能に身を任せた時の彼女だけだ。つまり、今の彼女は……「殺人蜂」だ。
天野の狂気を遙かに超える殺気を放ちながら、天野をナイフで壁に固定していく殺人蜂さん。スカートの中から次々とナイフが現れて、天野樹理を壁に磔にしていく。杉村が今日、持って来ているのは8本のナイフ。うち2本は既に消費されている。3、4、5、6、7本目と天野の体と衣服の僅かな隙間をついて壁に固定していく。恐らく8本目で相手の心臓に狙いを定めるはずだ。8本目を取り出し、止めを刺そうとした瞬間、力を入れる為の僅かな時間が生まれる。僕はそのタイミングに合わせて杉村に飛びかかる。
「もういい!殺人蜂さん!殺すな!」
後ろから杉村を抱きしめる形で押さえ込む。スカートの下からナイフを取り出そうと後ろに引いた肘が僕のお腹辺りで動きを止めている。
「なんで止めるの?緑青君」
「僕らは彼女を殺しにきたんじゃない。話を聞きに来ただけなんだ」
「そう……情報を得るためね。拷問なら任せて」
「違う、違う、あくまで平等な立場での対話だ!」
殺人蜂さんが残念そうにため息をつく。
「なーんだ、つまーんないの」
壁に磔にされた天野の顔に自分の顔面を近づけて悪魔の様にささやく。
「緑青君を傷つけたら、ハニーちゃんが許さないからね?一番苦しむやり方で……じわじわ二日後に死ぬ様に……殺してア・ゲ・ル❤︎」
天野の纏っていた狂気がその一言で跡形もなく消え去る。場は完全に杉村のものになっていた。杉村が嬉しそうに振り返って僕の目の前に立つ。
「また一つ、貸しね?」
そういうと杉村が僕の額にキスをして微笑む。なんかいつもの殺人蜂さんと違う。
「「殺人蜂」さん?」
「もう、私の事は本名のハニー=レヴィアンと呼んでって約束したでしょ?」
「う、うん」
江ノ木と鳩羽が山小屋に監禁された際、その時表層化していた「殺人蜂」さんには協力して助けてもらった。その時に一つ貸しが出来ていたけど……もしかして、まさか。
「殺人蜂さん?いや、ハニーちゃん?」
「何かしら?」
「今、何歳?」
「フフフ、妙な事を聞くのね、緑青君」
「ははは、ごめんね」
「ハニー=レヴィアン、10歳よ!」
「ですよねぇ……」
うわぁ……殺人蜂さんも退行しちゃってるよ。でも、杉村(女王蜂)が8歳を宣言しているのに対して、殺人蜂さんが2つ年上の10歳を宣言しているのは何でだろう?
「あぁ、時間みたい。また会いましょうね、緑青君」
軽く僕を抱擁するとそのまま殺人蜂さん独特の殺気が薄らいでいく。
「あれ?ろっくん?なんでこっち側に居るの?それになんでハニーがろっくんを抱きしめてるの?」
岩井さんが杉村のアタッシュケースを慌てて持ち出してきて、僕らの置かれている状況に首を傾げている。
「あらら。ろっくんさん、状況説明を求めます。天野さんの病室でなぜ二人が抱き合っているのかを教えて下さい。まさか!そこのベッドを利用したりはしませんよね!?天野さんを壁に磔にしてまで、二人のリア充っぷりを見せつけたいんですね!なんて破廉恥な!」
僕ら二人は赤くなって素早く体を離す。そして改めて壁に磔られている天野樹理さんと向かい合う。
「さぁ、話をしようか。天野樹理ちゃん」
天野樹里さんは言われるがまま、素直に首を縦に振った。少しやりすぎたかも知れない。けど、杉村も危ない状態だったのは間違いない。まぁ、どちらにしろ、10年以上もこの保護室暮らしをしているとなると、次第に体力切れを起こす事は目に見えていた。正直、あそこまで杉村と渡り合うとは思わなかった。むしろあの状態のままだと杉村の方が危なかったと思う。その点においては今回も「殺人蜂」さんに助けられた事は否定出来ない。「働き蜂」(ウォーカー)さんも退行しているのかな……その事も気になるけど、ここは天野さんに集中しよう。ごめんね、手荒な真似をして。出来れば音便に済ませたかったんだけど。今日の計画が上手く行くかは正直なところ五分五分である。そろそろ騒ぎを聞きつけた他の職員も駆けつけてくるだろうしね。
僕の作戦はこうだ。
彼女から事件の話を聞く。
そして、彼女をここから救い出す。
物理的にね?