杉村蜂蜜を保護
幼馴染同士はどうなる?
「ここがろっくんのお家?」
それを肯定しつつ、扉の鍵を開けて玄関を開ける。今日が金曜日で良かった。こんな精神状態じゃ僕も杉村も学校に行けない。とりあえず、精神が8歳児に退行してしまった杉村の手を引っ張って自宅に連れてきてしまったが、あのまま公園で遊ばせとく訳にもいかない。杉村の家はここから少し離れた一軒家で、杉村誠一おじさんと2人暮らしている。そのおじさんが留置所で身柄を拘束されている為、今は頼れる人が居ないので仕方無いのもある。
「私は足がドロドロだね。ろっくんは全身が泥だらけだね」
「そうだねぇ」
お前の性だろ。と思いながら杉村を狭い玄関に待機させる。幸いな事に丈が短いレインコートのおかげで衣服はほとんど雨に晒されてはいないようだった。洗濯器がある浴室へと直行すると、バスタオル数枚とってヒーターを別の部屋から引っ張ってくる。杉村が泥だらけなのは足だけなのでこれで事足りるだろう。僕は全身びしょ濡れで低体温症気味。泥だらけだし、風呂を沸かす必要がある。
「ハニーちゃん、とりあえずこれで泥拭いて?」
「うん。気が利くね。ろっくん」
玄関の縁に腰掛けて制服のスカートの中をごそごそと何かを漁っている。
「ろっくん、見ないでね」
僕は慌てて目を反らす。スカートの下からベルトで連結されたナイフが連なって姿を現す。その装着具を床に広げると収納されていたナイフを一本一本取り出して状態を確認していく。
「うんうん。みんな元気ね。汚れは無し。専用のお手入れツールはお家だけど、今はタオルで拭くだけで十分かなぁ」
ベルトの横に刃が剥き出しになっているプレート型ナイフを並べていく杉村。自分の足よりもナイフの方が優先度が高いらしい。
「ナイフ。大事なんだね」
それに目を輝かせて答える杉村。
「うん。大事ぃ!これが無いとろっくんを守れないから」
彼女の記憶はどう改竄されているんだろうか。僕らが出会った当時の年齢でも僕の事はナイフよりも優先順位は上のようだ。
「ハニーちゃんのナイフは特別性なの。ほらっ」
そこにはミツバチの様なマークが刃のグリップ部分に当たる箇所に刻まれていた。
「ハニー印の特性ナイフ!」
さすが英国の資産家である。値段に直したら高いのかな?
以前、杉村が落としたナイフを内緒で預かっているままなんだけど大丈夫かな?高価なものだったら返さないとな。ナイフの品質チェックを終えた杉村がやっと靴を脱ぎだす。玄関の鍵を閉めたら放っておいても大丈夫そうだな。言動や行動は幼いが意識はハッキリしている様で問題無いみたいだ。むしろ、今は僕の方が危ない。ランカスター先生から心理学に関する予備知識が無かったらとっくに自我を失っていそうだ。
「ちょっと、風呂に入ってくるよ。そっちの部屋、暖かくしてあるから足を拭いたらくつろいどいて?飲み物はキッチンにある冷蔵庫から出して適当に飲んでいいからね?」
ハーイ!と元気良く返事をし、黒タイツを脱ぎ始める。自分の素足を丁寧に拭きだす杉村。生白い足が眩しい。
「フキフキ、フーキフーキ♪」
うん。放っておいても大丈夫だな。震えが止まらない僕の方が危ないか。体調的なものもあるけど、恐らく精神的なものもあるかも知れない。ずっと浮遊感が消えてくれない。何より、罪悪感で押しつぶされそうだ。風呂が炊き上がったコールが鳴って、僕は脱衣所へと向かう。
泥だらけの衣服をとりあえずバケツに放り込んで、浴室の扉を開けると頭からシャワーを浴びる。乾き始めた泥が再び形を崩し、排水溝へと姿を消していく。身体中から泥が流れきっても僕はそのままシャワーを浴び続けた。
「……僕は何やってたんだろな7年間も」
父の石竹白緑から僕は7年前のあの事件と僕との関わりを聞き出した。それはとても辛い事実だった。幾ら思い出せないとはいえ、僕の手は既に血に塗れていたのだ。
「妻殺しの子供か……」
その遺伝子が僕にも流れているのかと考えると自分自身が生きている事自体が許せなくなる。母を殺した父を責める資格自体が僕には無かったのだ。杉村が僕の前から突然姿を消した日「八ツ森市連続少女殺害事件」の幻の4件目の被験者に僕は選ばれた。北白が行った生贄ゲームと呼ばれた儀式は幼い子供を2人山小屋に監禁し、生け贄に選ばれた方を殺すというもの。しかも、意図的に被験者同士で殺し合いを行わせていた。
「僕は生き残ったんだ。だったら、僕はどれだけ相手を苦しめて殺したんだろ」
警察でもその4件目の内容は明らかにされていない。あるのは状況証拠と死んだ佐藤淡緋の遺体だけだった。その一部始終を知るのは犯人の北白直哉と……。
「その共犯者と僕自身」
これは日嗣姉さんの推測だけど、あの事件には共犯者が居て、今も誰かが僕らを見張っているらしい。日嗣姉さんが錯乱し、自分の事を姉の「日嗣命」と名乗るのも、僕と日嗣姉さんが直接接触しないのも全ては犯人の目があるからだ。夏休み、僕らを殺し損ねた男が共犯者に雇われたか、その犯人自身かは分からないけど、僕らが妙な動きを見せれば必ず犯人は動く。それは警告でもあり、証拠隠滅の為でもある。でも僕らの意志とは関係無く、江ノ木や鳩羽、そして元軍部の人間が次々と行方不明になっている。新田に関しては、森で遺体の一部が見つかって、警察の発表では野犬に襲われて亡くなったらしい。
「あと何人死ぬんだろ……早く僕を殺せば……」
いや、殺せないのか?父の話では7年前に八ツ森に居た人間なら僕が記憶を失っている事は把握している。八ツ森市民全員に名前と顔が知られ、見守られている僕だからこそ犯人は手を出し辛いのか?杉村が犯人を探しているにも関わらず、殺されないのは僕と同じ様な理由か?分からない。でも、もうそんな事はどうでもいい。
「僕が佐藤の妹を殺した事実は消えない。それに、佐藤の妹が世界の記録から消えたのは他の誰でもない、僕自身の性だ」
僕のぼんやりとした記憶の中で、名前と顔が思い出せない小さな女の子。それが佐藤浅緋だ。いつも僕の背中を優しく後押ししてくれた彼女を僕が殺した。肉体も魂も存在も全て。
「深緋は一体、どんな気持ちでこの7年間を!僕の隣で!」
拳を握りしめ、浴室の壁を後悔の念を込めて叩き込み続ける。熱いお湯を浴びているにも関わらず、僕の身体は一向に熱を取り戻さない。僕に何が出来る?妹を殺した憎むべき存在であるこの僕が佐藤にしてやれる事はなんだ?潔く首を差し出すか、この命を自分で終わらせれば罪は償われるのだろうか。頭から降り注ぐシャワーと共に僕は涙を流す。
「くそっ、くそっ、くそっ!自分が!自分が憎い!」
拳を壁に叩きつけ続ける僕。
ふと誰かが浴室の扉を開ける音がする。外気と共に蜂蜜の様に甘い香りが浴室に広がった。僕は後ろを向いたまま冷たく突き放す。
「ほっといてくれ」
杉村の息を飲む音が背中越しに分かった。8歳の杉村でも僕の異変を感じ取ったらしい。この苦しみはお前とは無関係だ。だから放っておいてくれ。これは僕の問題だ。いや……お前がそうなってしまったのも……僕のせいなのか……。杉村の細い手が僕の震える背中に触れる。不思議と身体の震えが収まっていく。その手から直接熱が分け与えられているように。そうか、僕は人を愛せなくなってしまったけど、杉村は人を愛せる。いつだったか留咲アウラさんが言っていた。自分が人を愛せないからといって、愛そのものの存在を否定するのはやめて下さいと。杉村はずっと僕の傍らに居て見守り続けてくれた。7年経った今もこうして僕の事を守ろうとしている。記憶が改竄された今もこうして。
「ろっくん。それは私達の罪だよ」
杉村の手が伸びて僕を背中から優しく抱きしめてくれる。10年前、母の血に塗れた僕の事を抱きしめてくれた時みたいに。流れ続けるシャワーに杉村の衣服が濡れない様に慌てて栓を閉めようとするが、背中に当たる杉村の身体の温もりと感触に驚いて僕は振り返る。
「大丈夫、ろっくんは私が守るから」
「……ハニーちゃん?服は?」
「服を着たまま……ハニーちゃんはお風呂に入らないのです」
構うこと無く僕を前から抱きしめてくれる杉村。前面に杉村の引き締まった身体の部分と異常に柔らかい部分が押しつけられて僕の頭がショートしていく。いや、相手は17歳とはいえ、8歳の精神年齢だ。そういう意図は無いはずだ。これが「殺人蜂」さんなら間違いなく襲われていた。
「あれ?私なんか変な気分?」
あ、やばい。杉村の頬が紅く高揚し、視点が定まっていない。とりあえず目線を下げない様に杉村の身体を僕自身から引き剥がす。
「ろっくん?どうしたの?お風呂ならこの前も一緒に入ったよね?」
調子がくるってしまう。意図せずか、僕の悩みが杉村の存在によって緩和されている様な気がする。
「ワンちゃんの噛み跡、いっぱいだね。あれ?ろっくん……そんな大きかったっけ?なんか形が違う?あれ?私もなんか……変?」
どこを見ているっ!っていうか、触るな!とりあえずシャワーを中断して杉村を浴室から追い払う。バスタオルで身体を拭いて着替える様に指示すると僕は再び浴室に戻って身体を荒い、湯船に浸かって身体を暖めた。杉村のおかげか、僕の身体と心は壊れる事無く熱を取り戻していく。
「月曜日、佐藤に謝ろう。僕は佐藤に殺されてもなにも文句は言えない」
……僕自身が7年前の事件の被験者である事実を聞かされたと知る人間は、杉村おじさんと父の石竹白緑以外は知らない。
当然、それは日嗣姉さんも佐藤も若草も、杉村も……そして共犯者も?僕は依然として、聴力をほとんど失い、過去の記憶も失ったままの事件被害者と思われている。それにこのままいけば、いずれ佐藤や若草まで木田が辿った道を通りかねない。
良いか悪いかは別として……このタイミングでその事実を知れた事は寧ろチャンスなのかも知れない。この状況を上手く利用すれば犯人に一歩リードを付けられるかも知れない。僕が動けば更に人が傷つくかも知れない。けど、この状況で傍観者を気取る事はもう僕自身が許せない。
僕はどうすればいいんだ?
風呂からあがると、僕のタンスにあった白いYシャツを上から羽織っているだけの杉村がソファーでごろごろしていた。部屋自体は暖かいので風邪引く事はないとは思うが。テーブルには冷蔵庫から出したオレンジジュースが2つ用意されている。
「あ、ろっくんもオレンジジュース飲む?」
「あ、ありがとう」
風呂場で裸で抱きつかれた光景を頭から追い出して、グラスを受け取る。多分、僕が人を愛せる普通の人間なら平常心は保てて無いだろう。若草の特殊な性癖は別として、杉村愛好会の会長がそんな場面に遭遇したら即倒しかねない。まずそんな場面は一生やって来ないと思うが。10年前も僕以外の男子に心を許していた記憶は無い。いや、記憶自体が改竄されている為、10年前の杉村自身と今の杉村を比べるのは危険か?とりあえず、空腹を思い出した僕は杉村を連れて近くのファミレスにでも出かけるか。近くに確か、ガストンというファミレスがあったはず。
「お腹空いてない?ファミレスでも行く?」
「いくいくーー!!」
喜んでその場でくるくる回り出す杉村。シャツがめくれて、淡い水色の下着がチラチラ覗いている。というか下着は下の方しかつけてない。
「ハニーちゃん、下着は?」
「履いてるよ?」
「上は?」
「ぶらじゃー?」
「うん」
「窮屈だから嫌なのっ!」
舌を出して僕に抗議する杉村を宥めつつ、僕は大きめのグレーのパーカーと青いジーパンを借し与える。
「おぉ、ありがたい!ありがたいぃ!帰りに私の家に寄ってほしいな。そこでお着替えとお洋服、追加兵装を補給したいのです。数本のナイフだけじゃ不安なのですよ。」
追加兵装が何を指すか気になったが、着替えは必要か。
「って!一緒に暮らす気?」
「違うの?」
「……その選択肢しか無いのか……」
おじさんが不在の今、杉村の非常事態にすぐさま対応出来る人間が居ない。来週、ランカスター先生には相談するつもりだが、少なくともこの休みは僕の家で過ごすしかないか。杉村の家でもいいけど、おじさんの許可無く使わせて貰うのも忍びない。
杉村が着替え終わると、髪をくるくるといつものサイドテールに結い始める。テーブルの上に置いてあったいつもの簪を刺して完了だ。
「あ、ナイフどうしよ。今ある装備はジーパンの上から装着出来ない。隠せてないナイフだよぉ」
「置いとけ。見つかったら警察に捕まるから」
「パパみたいに?」
「……お、おう」
父親が警察に身柄を拘束されている事は概ね理解しているようだ。そんなこんなで僕は夜食を食べに近くのファミレスへと足を運ぶ。