水槽
もう1人の青の少年、教室で魚の目をした教師と顔を合わせる。そしてある噂をその口から聞く。
体育の授業が始まる少し前、教室に忘れ物を取りに行くと、2年A組のクラス担任「荒川静夢」が杉村の席に腰をかけていた。教室の扉を開けた俺と荒川が顔をはち合わせる。
「なんだ、若草か」
「なんだってなんだよ。それより、どうして誰も居ない教室にいるんだ?」
荒川が教室を見渡すと、異常なしの確認をとるように頷く。
「こうしてないと杉村が教室を出られないからな」
そういえば夏休み前、移動教室がある授業に杉村が出たがらない対策として、留守にする教室を荒川が代わりに守るとか言ってたな。
「結構先生も律儀なんすね」
「ん?まぁな。折角、杉村の成績も順調に上がってきたし、この調子で頑張って貰わないと私のメンツにも関わるからな」
口ではそう言いながらも、自分のメンツなんかにはまるで興味が無い。そういう人なのは知っている。荒川の心配事は別にあるように見える。
「杉村の今の状態をあまり心地良く思ってないんすか?」
荒川が頬杖をつきながら、死んだ魚の目をこちらに向ける。
「成績が上がりすぎなんだよ。まるで別人みたいに」
「まぁ、もう一人居るけどな」
荒川が腑に落ちない態度で首を横に振る。
「そのもう一人が全く現れなくなったんだよな……」
俺が最後に「働き蜂さん」を見たのは、山の川原だった。銃で撃たれた杉村を守る様に現れた働き蜂さんは、痛みで気を失う寸前に俺と佐藤にこう言い残した。「女王蜂を頼む」と。
そんな事を託されても何も出来ていないのが現状だが。
「ランカスター先生の意見は聞いたのか?」
荒川が力なく頷く。
「専門的すぎてよく分からなかった」
「そ、そうか。俺達じゃ何も出来ないのか?」
「そうだな。厳密に言うと、今の状態が普通の高校生としては概ね正常と言える。だが彼女らしくは無いのかも知れない」
言われてみればそうだ。最近の彼女はすべての物事をそつなくこなし、英国貴族を彷彿させるようなその立ち居振る舞いは、これまでのマイナスイメージをごっそりと払拭させる勢いだ。暴力を振るわなくなった彼女を警戒する人間も減ってきている。
それに加え化物染みた身体能力は競技でいかんなく発揮されている。もうちょっとしたら校内の人気者に仲間入りを果たしそうだ。ただ、俺達が時間を共に過ごしていた歪なあいつの方が俺達には正しいと思える。このまま、あいつが杉村の中で消えて無くなるのだとしたらそれはそれで寂しい。
「私はいつでも無力だよ」
荒川がいつになく弱気な姿を見せる。
「私はいつだってそうだ。助けを求める子供一人救ってやれない。山小屋での時もそうだ。私は必死に声を荒げるだけでお前達が居なくなっていたのにもしばらく気付かなかったよ」
俺が石竹を助けようと後を追わないように紐で拘束されているところを佐藤の協力を得て抜け出した。
本来なら俺達が野犬に食い殺されていたかも知れない。そこで運良く杉村の親父さんに遭遇してなんとか石竹の下に辿り着く事は出来たのだが、助けたと表現する事を躊躇うほど日嗣と石竹は傷付き血を流している状態だった。
荒川が目線を変えずにこちらに質問する。
「お前らも無事に下山出来てよかったよ。その後、石竹の様子はどうだ?」
「最近はアニメ研究部への撮影協力とかで忙しくしてますよ。杉村と一緒にね。耳はほとんど聞こえてないみたいですが、あいつ動体視力がいいみたいである程度の言葉なら唇を読んで返答してきます」
「そうか。早く治るといいが……それで記憶の方はどうだ?」
聞き辛そうな顔をして言葉を選んでいるようだった。
「相変わらずですね。ただ、前に佐藤の妹の名前を口に出して自覚無く涙を流す事はありましたが」
荒川が立ち上がり、俺の腕を掴む。
「事件の事を思い出したのか?!」
その佐藤の妹は連続少女殺害事件の犠牲者であり、石竹緑青と同じ第四ゲームの被験者に選ばれた少女だ。
「名前だけ。それにその名前は過去に何度も佐藤の姉の方が口にしてたらしいし、一概には関連付けられないと思う……」
荒川が泣きそうな顔をして頷く。
「そうか。だがもしもの時はあいつを支えてやってほしい」
俺は首を横に振る。
「それは杉村の役目でしょ?」
ここで次の授業を知らせるチャイムが教室に鳴り響く。
「……新田の件は知っているか?」
同じ2年の男子で夏休み中に行方不明になっている生徒の名前だ。
「ある程度は知ってる。それがなんか関係するのか?」
「これはまだ伏せている情報だが、繁華街で金髪の綺麗な女の子と歩いているのをみかけられたらしい」
「それって?まさか」
荒川が周りを気にしながらこちらの眼を覗く。
「杉村の中にいる別の人格が味方とは限らない」
自身の記憶と共に沈黙を貫こうとしている働き蜂さん。それが何か関係しているのだろうか?
「もしもの時は石竹を守ってやってくれ」
「杉村に勝てる自信は無いけど、まぁ、山小屋で日嗣を刺した犯人の件もあるし、こちらでも警戒はしておくよ。ただ、あまり期待はしないでくれよ?」
口元を緩め、涙目になる荒川。
「あいつの為に躊躇うことなく引き金を引いたお前を私は信用している」
そこまで言われたらやるしかないか。まぁ、出番なんて無いだろうけど教室を襲撃した犯人との関連性も気になるし、興味はある。
「俺は本当に普通の男子高校生なんで期待しないようにな」
「ロリコンだろ」
「あ、普通じゃなかったわ。異常な高校生なんで存分に期待するように」
短く返事をした荒川が安心したように笑顔を作る。この人も多分、色々あの事件であったんだろうなと思いつつ俺は体育の授業に出る為に教室を出ようとする。
一言荒川が謝罪した後、こう付け加えた。
「新田は廃部処置された軍部に所属していた。石竹も確か……軍部だよな?」
俺はそれに頷く。
「新田の件も石竹とは無関係に思えない。十分気を付けてほしい……」
俺はそれに短く返事をすると教室に1人荒川を残して出て行く。その空間がまるで水槽の様に荒川を閉じ込めている様にその時はなぜか感じた。水の中から覗く熱帯魚の眼差しが暖かみを帯びて俺を見守っている。この先生って、こんなキャラだっけ?
あいつら、交友関係が結構狭いし、ここは人気者では無いがそれなりに顔の広い俺が探りを入れてみるか。危険な目にあっても、杉村おじさんから無理矢理譲り受けたお守りもあるしな。なんとかなるだろう。そのお守りに込める弾は家の近くにある商店街の文房具屋で買えるって言ってたけど……どうなんだろ。
元軍部の連中にこれ見せたら色々話してくれそうだしな。ここは一つ、俺の一番嫌いな嘘を武器に戦うか。
他人を安全な所から見下し、嘲笑っている奴がいるのが俺は気に入らない。
一泡吹かせてやろうぜ?
なぁ、緑青?
そして若草は取りに来た忘れ物を忘れる。