E:くだものナイフ
緋色の少女は北白家への門を潜り怨敵と対峙する。握られたナイフは彷徨う。誰かお姉ちゃんを止めて!
森と市街の境界線に建つように北白家の住居は建立されていた。さすがは八ツ森を開拓したとされる四方の大資産家の一つだ。
北白家への道順を電話に出た使用人の人に伺い、今、その門の前に立っている。自然と手の中に握り青い携帯に力がこもってしまう。
「あいつが今この門の向こう側に居る」
和式の壮厳な門構えに備え付けられた近代的な呼び鈴に違和感を感じつつ、それを強く押し込む。
市街とはいえ、この周辺は森に近いので妙な静けさが漂っている。生活音が息を潜め、四方の森から流れ込む森の風が私の黒いメイド服をはためかせる。その色合いは死神を彷彿とさせた。
しまい込んだ分厚いファイルの重みで肩にかけた鞄がずれ落ちてくる。この重みは、私の7年の重みを現しているようだった。
私のこの7年間は一体どんな意味を持っていたのだろうか。でも後悔は無い、妹を失ってからの私の人生は何をしていてもどこか喪失感を内在させていた。私は妹の最後を知りたい。
私の望むものはそれだけだった。
友達とのショッピングも、流行のファッションに身を包んで出かけたり、周りにウケのいい彼氏をつくったり、映画に行ったり、話題の本に目を通してみたり……そのどれもが私の目には滑稽に映っていた。
妹がそれらを味わえない。
姉が1人楽しい人生を送るなんて私自身が許せなかった。
私は死体と戯れている方がお似合いだ。腐臭と血、体液にまみれながらいくつもの真実に辿り着く。血の通わなくなった身体を切り裂き、臓物を肉体から切り離す。身体を開き、暴き、そして死者の声を聞くのだ。
でも妹の身体だけは、声だけは聞けなかった。妹の充血した目と切り裂かれた腹腔を写真で間接的に目にしただけで、私は残酷な現実を突きつけられる。妹はもう居ない事実。
大きな門構えの扉が軋み、扉が開かれる。中から30代前後の使用人とおぼしき和服姿の女性が顔を出す。
「ようこそお越し下さいました。客間へ案内しますのでどうぞ」
適度な距離感を持ちつつ、親しみのある笑顔がその顔からこぼれる。私はそれにつられて笑顔をつくることもできなかった。ただ、頷き、案内されるままに歩いていく。
靴を玄関で履き替えると、畳の敷かれた客間へと案内される。
「ここでお待ち下さい。当主が挨拶をさせて頂きますので」
この屋敷のどれもが規格外に大きく荘厳なのに対して静かすぎる。生活をしているという温もりが全く感じられないのだ。
私がいぶかしむように首を傾げていると、襖を閉じようとしていた使用人の人が私の気持ちを察したように微笑む。
「この広さが逆に寂しいんですよね」
私は言葉も返せずに、ただそれに頷くだけしか出来なかった。使用人の人が寂しそうに頭を下げ、退室する。
「すぐにお茶を用意致します」
手にしていた青い携帯を正座する私の横にちょこんと置く。
ふと思う。
私だけじゃない。
この北白家の人達の7年間はどうだったのだろうか。大きく威厳のある屋敷と莫大な土地。その資産を持ちながらも、静かに滅び行く儚さをこの屋敷からは感じる。頭に石竹君や学校のクラスメイト、心理部の人達と過ごした日々を思い出す。思いの外、悪い7年間では無かったのかも知れない。
満点の星空の下、空を見上げた私達。
日嗣さんが語った。
亡くなった人間は星になり、生き残された者を見守り続けるという。
私は妹に胸を張って生きていると言えるだろうか。過去に固執し、未来から目を背け、ひたすら妹の痕跡を追い求め、復讐心に身を焦がす。
私はお姉ちゃん失格かも知れない。
あぁ。浅緋に会いたいな。
私は無性に悲しくなって、胸元に隠していた小さな果物ナイフを手にする。もうなんか疲れてしまった。
これは多分、逃避だ。
もし、北白から妹の真実を聞かされてしまったら、私は、この先、どう生きていけばいいんだろ。わからない。私に真実を受け止められるだけの強さがあるのだろうか。
真相を追い求め、さまよってきた心が疲弊し、ここにきて悲鳴を上げ始める。
妹に会いたい。
ここで私が自殺したら、北白家ごと心中できるだろうか。私になら出来る。苦しまず、躊躇う事無く、体内のどこにその刃先を滑らせれば確実に死ねるかを私は知っている。
刃先を反転させ、肋骨に刃が当たらない角度に刃先を傾斜させる。
痛むのは最初だけだ。
7年間ずっと味わい続けてきた全身を廻る毒の様な痛みに比べれば、一瞬の苦しみなどとるに足らない。
遠くで男の声が聞こえてくる。
構うか。もう私には関係の無い事だ。
ここで死なせてほしい。
妹の最後を知り、また私は死ぬのなら……。刃先を30cmこちら側に動かせば私は死ねる。この場に石竹君がいたら、どんな顔するのかな。
妹の記憶、生きた証、君がそれを大事に抱えてくれているなら、それでいいか。妹も緑青君の事、好きだったから。
全部無くなっちゃえ、法で裁けない殺人鬼を生み出したこの屋敷と共に。私は目を瞑りナイフを握る手に力を込めた。
襖を勢いよく開ける音と共に男の叫び声が部屋に響く。私の小さな悲鳴はその怒声にかき消され、その手にしていたナイフは心臓と反対方向に力がかけられていく。
目を開けると白髪の混じった黒髪の男が私の果物ナイフの刃先をきつく握りしめ、私に刺さらないようにしてくれていた。
「ごめん、気付くのが遅かった」
低い声ながらもどこか少年の様な調子でその声は発せられる。7年前、刑務所で対峙した憎むべき男がそこにいた。男が続ける。
「大きくなったね。君、あの時の女の子……だよね?」
震える私の手から、男の血にまみれたナイフが取り上げられる。お茶を持ってきた使用人さんが紅く染まった畳を目にして、その手にしていた茶碗を落とす。
救急車を呼ぼうとする使用人さんを。目の前の男がそれを止めさせる。白衣を着た女性が慌ててやってきて、男の血に染まった手に応急処置を施し始める。私の脳は考える事を止め、その光景を力なく眺めているだけだった。
「佐藤……深緋さんだね?」
私は返事するでもなく、ただ頭を上下させた。私は姿勢を正し、私の妹が殺される状況を作った男と対峙する。男の横には担当医らしき白衣の女性が同席している。
私の視線がその女の人に向いている事に気付いた男が女性に合図を送る。
「すまないけど、外してくれるかい?あと、何があってもこの部屋には入らないでくれ。僕の許可があるまでは」
小さく頷くとその白衣の女性が席を外す。この部屋に私と北白だけがとり残された。
「弟の携帯を拾ってくれたそうだね」
私は思い出す様に、横に置いていた青い携帯電話を渡す。
「弟さんの事は残念です」
北白は頭を深く下げると陳謝した。
「北白家の所有する土地、その森に不審者が侵入している電話を受けて、弟が猟銃を持って出向いたんだけど……返り討ちにあったみたいで……これは報いだよ。君の妹さんの命を奪った僕への。本当に申し訳ない事をした」
私の目から涙がこぼれていく。
勢いよく私は立ち上がると、和服を着ている北白の襟首を掴みあげる。身長も力も無いので、相手の姿勢が崩れることは無かったが静かにそれを受け入れている印象を受けた。
「なんで、なんで!今、そんな態度をとれるのに、なんであの時!なんであの時にはそれが出来なかったのよっ!!」