2.硝子の柩に眠るラルカ
ふわり・・・夢の中から這い出でて、眠気の残る重たい体を起こし目を擦る。
時刻は昼になる少し前。
夜間営業の天姫殿が動き出すにはまだ早く、人の多いこの場所もすごく静か。
表の料亭のほうからかすかに聞こえる喧騒が、少しばかり気に食わなくて癇に障る。
僅かに眉間に皺を寄せ、俺はあたりを見渡した。
眠る時は確かに隣にいたはずなのに、
すぐそばの敷布には自分のぬくもり以外何も残っていなくて。
部屋の襖を開けて廊下に出れば、向こう側の角を曲がってきた雅灯を目が合った。
「・・・・・・竜里は?」
俺が竜里の居場所を聞けば、雅灯は呆れたように小さなため息をついた。
文句があるなら、はっきりと言えばいいのに。
そう文句を言ってもどうせ適当にはぐらかされるのがわかっているので、不機嫌そうに睨みつけるだけにとどめる。
「天姫なら、下の仕事部屋にいるよ。お医者の先生が来ているからな。」
そっけなくそう言って、俺の隣を雅灯は通り過ぎる。
昔は見上げるほどに大きかった雅灯が、今は俺よりもだいぶ小さい。
当たり前だ。
彼に出会ったときの俺は6つの子供でしかなく、
今の俺は平均よりも大きい竜里よりもさらに大きくなってしまった。
初めて出逢ったとき、竜里は本当にお姫様のように愛らしく、だけど俺はそんな竜里よりも遥かに小さく、少女めいた顔立ちをしていた。
5つ年上の竜里は俺よりもずっと早く大人の男であった雅灯の背丈に追いつき、雅灯と竜里が背丈を並べる頃になっても、俺はまだ竜里よりも遥かに小さく、少女めいた顔立ちも相成って、俺たち二人は本当に・・・普通の、男女の恋人のようだった。
だけど、だけど。
子供はいずれ、大人へとなるもので。
竜里の成長が止まり、大人の男と等しくなっても・・・俺の身体は少女に似た子供の身体のままではなかった。
背丈が竜里をぬかし、体が骨張り、声も女とはぜんぜん違う低いものに変わった。
竜里の恋人として隣に並んでも違和感のない・・・女に似た子供のものですらなくなってしまった。
***
部屋から、話し声が聞こえないことを確認して襖を開ける。
開けてみれば部屋の上座で、竜里が横になり寝息を立てている。
長い薄紫の髪は結われることもなく床を流れ、仕事の時間よりずっと早いからかその身に纏うは男物の着物。
いつもなら少しの物音ですぐに目を覚ましてしまうのに・・・珍しく目を覚まさない竜里に、言い様のない不満を覚える。
「竜里、竜里・・・。」
軽く揺すっても、竜里は穏やかな寝息を立てるだけで目を覚まそうとしない。
すやすやと・・・安らかに眠る竜里を見ていたら、自然と手が動いた。
きっと眠る竜里が、あまりに綺麗で無機質な人形のように見えたから。
きっと竜里が、俺にとってあまりに愛しすぎる人だったから。
ゆるり、俺の意識から離れた無意識の行動で俺の手が・・・竜里の首に添えられる。
ゆるり、まるで蛇が地を這うような静かな速度でその手に力が籠り、ゆっくりと竜里の呼吸を圧迫する。
それを俺は、ただ暗い瞳で見つめるだけ。
「俺を、殺す?」
聞きなれた声が発したその言葉に、俺ははっと我に返る。
いつの間に目を覚ましたのやら、俺の天女は美しいかんばせに笑みを浮かべ、俺を見上げていた。
「なんで、笑ってそんなこというの。」
きっと俺は、泣きそうな顔をしている。
図体の大きな18にもなる男が、今にも泣き出しそうな情けない顔を、きっとしている。
だけど俺の天女は美しい柔らかな笑みを崩すことなく浮かべていて、自分の首に添えてあった俺の手を取り、体を起こす。
「何で、竜里は笑うの?」
俺と同じように畳に座り、手に持ったままだった俺の手を自分の頬に添えさせる。
滑らかで、白く細い指を持つ竜里の手が、竜里の頬に添えられた俺の手を、上から覆う。
「暖かいでしょう?
まったく同じだとは言わないけれど、呼宝の体と近しい温度をちゃんと持っているでしょう?
俺はまだ、生きているでしょう?」
そう俺に問いかける竜里の笑みがあまりにも穏やかで優しくて、俺の中にずっと燻っていた怒りと悲しみに火がついた。
「何で・・・何でっ!」
勢いに任せ、竜里を突き飛ばすように畳に押し倒す。
いきなりのことに驚いたのか、竜里は濃紺の瞳を一瞬丸くするが、すぐに先ほどまでの笑みに戻る。
何で・・・何で・・・。
竜里はいつだってそうだった。
取り繕うのが上手で、平気なふりが上手で、なんでもないふりをして、当たり前のように嘘をついた。
それが竜里という人間で、そんな竜里を俺は愛していて、同じくらいに悲しくて憎かった。
「殺しても、いいよ?」
どこか切ない、綺麗な笑顔で竜里は俺に笑いかける。
それが無性に悲しくて、俺は畳に転がる竜里の胸に顔をうずめる。
見えないように、泣きそうな顔を隠せるように。
だけど俺の気持ちなんて竜里にはバレバレで、
自分の胸に押し付けられた俺の頭を竜里は慰めるかのように優しく撫ぜる。
何のふくらみも柔らかさもない、俺の天女の胸。
俺と同じ性別を持つ愛しい人。
顔を上げると竜里は先ほどと変わらぬ顔で微笑んでいて、出逢った頃と同じように優しい手つきで俺の頬を撫ぜる。
出逢った頃とは違い、どう見たって男にしか見えない、図体のでかい俺を変わらず大切なものに触れるかのような優しい手で。
「呼宝になら俺の命、あげてもいいよ?」
体を起こし、俺の目の前で微笑む天女がまるで愛を囁くような甘い声で言う。
でもきっとこれだって、閨での言葉と変わらない。
だってこれは、竜里にとって最上級の愛の言葉でしょう?
「呼宝にならなんだってあげる。
俺の心の身体も命も、何もかも。
そうだね・・・それでも呼宝がまだ泣くというのなら・・・。」
ゆっくりとした動作で竜里は体を起こし、俺に微笑む。
間近で見た濃紺の瞳は変わらず美しく、俺の漆黒の瞳と近しい色の癖に、まったく違って見えた。
竜里の肩から零れ落ちた薄紫の髪が俺の漆黒の髪と混ざり、向かい合う俺と竜里の間で混ざる。
「全部、あげる。
何もかも、全て呼宝にあげるよ。
ずっとずっと、俺の居場所であった俺の誇りでさえも。」
竜里の言葉に、俺は目を大きく見開く。
どれだけ泣きたくても、泣きそうになっても必死に耐えてた涙が、零れ落ちる。
ゆっくりと笑みを深めた俺の天女は、俺が好きだった白くて長い、骨張った指でそれを拭う。
あぁ、なんて・・・この男は愛しくて酷い。
「天姫殿を、君にあげよう。
世界で一番俺が君を愛していたことの証明として・・・
俺が生まれ育った、俺の全てであった何よりも美しいこの場所を、呼宝にあげる。」
ゆっくりと重なった天女の唇は以前と変わらず温かく、だけど少しだけしょっぱかった。
俺はただ呆然と涙をこぼすことしかできなくて、そんな俺を愛しい天女は優しく強く抱きしめた。