すべてがこぼれおちる。私の手から。
土砂降りの雨だった。
おかげで今日は客が少ない。
暇そうにカウンターに寄りかかって、1週間前の晩を思い出す。
頬に張り付けた薬草にそっと触る。
傷自体は、もうほとんど消えかけている。
それでも跡が残るといけないといって、ミーアはまだ薬草をはずすことを許してくれない。
(こんな怪我、慣れてるんだけどな)
彼はあの後、金貨を一枚、手近なテーブルに置くと、蒼白になった二人を連れて去っていった。それ以来、顔を見ることがなくなった。
アーサー・グリフィス。
あれから、しばらくの間、店の話題は彼一色だった。
そして、レフィーは初めて彼について知った。
100歳にも満たぬうちに剣の才を買われ、歴代最年少で就任した近衛隊の隊長。
炎の竜族長が長男。
母親は降嫁した王妹。
現王の甥。
それなりの身分どころではなかった。
まさに、竜族の中の竜族だった。
(きっと、もう逢うこともない)
軋む心に蓋をして、それでも、誰かを待つようにレフィーは店の入り口からのぞく漆黒の闇を見つめ続けた。
この天気では、客は増えそうにないということで、レフィーは、早めに店から解放された。
人気のない、従業員用の廊下を歩きながら、雨の音を聞く。
いつもだったら、このまま店の二階にある従業員用の部屋にすぐに戻る。
だが、先ほど見つめていた漆黒の闇が脳裏から離れなかった。
手が、震える。
この店に来てから、起きていなかった衝動が、レフィーの体を支配する。
くるりと身をひるがえし、店からは死角となって見えない裏口から雨の中に飛び出した。
ミーアとダールにばれないうちに戻らなくては。
そう思いつつも、走るのを止められなかった。
走るのをやめれば、すべてがよみがえる気がして。
「汚らわしい」
「お前は私のものだ」
「虚無に落ちた」
気がつけば、大広場で天を見上げていた。
雨が、顔を、肩を、全身を、叩く。
己の手すら見えぬ闇の中で、必死に天に向かって手を伸ばす。
掴めるはずのないものを掴もうとした手から雨が滑り落ちる。
「ルナ」
虚空にその名を呟く。
「ルナ」
彼女の名の由来である月すら見えぬ今夜のような日は、いつもこうであった。
ただ、闇の中で彼女を探した。
「ル・・」
再び彼女の名を呼ぼうとしたその声は、後ろから抱きしめられたことで途切れる。
「レフィー」
いつの間にか背後に来ていたその人が、だれかは、顔が見えなくとも分かっていた。
低く深みのある声で名を呼ばれ、安堵に、体の力が抜け、その人物にもたれかかった。
(ああ、そうだ)
彼女は気が付いてしまった。
(この人に会ってからだ。私が、ルナを探さなくなったのは)
薄れゆく意識の中で、彼女が最後につぶやいたのは、
かつて最愛を贈ったものの名ではなかった。
「アーサー」
名を呼ばれたことで、男の目に宿った光にも、
さらに強く抱きしめられたことにも気付かず、
彼女は意識を手放した。