穏やかな夜
「レフィー!」
居酒屋の喧騒の中で、女主人ミーアのよく通る声がレフィーをよんだ。
「はい!」
黒い髪と瞳を持つ、17歳ぐらいの小柄な少女が声を張り上げて返事をする。
彼女の勤める「踊る子馬亭」は、今晩も大繁盛しており、怒鳴らなければ、相手が何を言っているかもわからないぐらいだった。ドンッ、とジョッキについだビールをテーブルに置くとレフィーは急いで赤毛の大柄な女性のいるカウンターに向う。近づいてきたレフィーに、ミーアが耳元でそっとささやいた。
「今夜も、あの人が来てるよ。ほら、注文を取っておいで」
ミーアの目線の先には黒ずくめの男がいた。
マントも、着衣も、ブーツも、全部、黒。
そんな、異質な衣装をまとっているにもかかわらず、なぜかこの酒場になじんでいる男。
いつも、マントについたフードを深くかぶり、その素顔を見たものはいないらしい。
その男が、こちらを向いている。
鼓動が早まる。
気づいていた。
彼の視線が、ずっと自分を追いかけていたことに。
だが、レフィーは知らないふりをしていた。ミーアが意味深な微笑みを浮かべるのに、レフィーはわざとため息をついてみせる。
「ミーア!だから、私と彼は…」
「いらっしゃい!」
いつものように抗議しようとするレフィーを無視して、ミーアは新たに来た客に挨拶に行ってしまった。
「もう」
再びため息をついた彼女を調理場からミーアの夫、ダールが慰める。
「まあ、まあ。ほら、客がお待ちだぞ。レフィー」
「はい」
なぜか、彼の所に向かおうとする足は、早足になっていった。
「こんばんは」
目の前の黒ずくめの男がぼそりという。
低い声が、レフィーの耳に心地よく響いた。
この男はここ3ケ月ほど、この店にほぼ毎晩来ている。ちょうどレフィーも3ケ月ほど前から働き始めたためか、レフィー目当ての客だと、ミーアや一部の客が騒いでいる。だが、レフィーは、この男が自分などを気にかけるはずがないと思っていた。自分のようにチビで、貧相な黒色の子供に興味があるはずないと。
薄暗い店内ではよくわからないが、なかなか整った顔立ちに思えるし、身なりは質素だが、気品や物腰から言って、それなりの身分の人物だとレフィーは考えていた。
かなり長身の男で、今も座っているはずなのに、小柄なレフィーと目線があまり変わらない。服の上からでも鍛えられているのが分かる体躯からいって、武官なのだろうか?
落ち着いたその立ち振る舞いは、彼女よりずっと年上のものに思える。
男は不愛想で、あまりしゃべらないため、レフィーはいまだに彼の正体が掴めずにいた。
最初こそ、この無愛想さに戸惑っていたレフィーだが、今ではすっかり慣れてしまった。
「こんばんは。月も出ていて、いい晩ね。ご注文は?」
「今夜のお勧めは?」
「仔牛と赤カブのシチューです」
「では、それとビールを」
これで今晩の会話は終わりだろう。
あとは、注文の品を持ってきた彼女に、彼が「ありがとう」というだけだ。
だが、なぜか、このお決まりのやり取りを楽しいと思っている自分がいる。
注文を復唱し、さっさと去って行った彼女は知らない。
無愛想な男が、目元を少しだけやわらげて、彼女の後姿を見つめていたことを。
「おまちどうさま」
「ありがとう」
いつも通りのセリフだった。
毎晩繰り返される、儀式のようなやり取り。
そして、レフィーはそれに満足していた。
(だって、私はいつかこの地を去るから。)
この人と、これ以上かかわりを持てば、還れなくなる。
そんな予感がした。
彼女は、互いの運命が絡むことを拒否していた。ただ、こうして毎晩顔を合わせられるだけで、幸せが得られると思っていた。あとになって、それは彼も同じだったということを彼女は知る。運命の糸が絡むのを感じると、すぐに互いに壁を作った。
それでも、相手に近づくことを怖れつつも、逢わずにいられなかった。