第九十七話 風の色をぬる子ども
風に、色があるとしたら。
たとえば春は薄桃色。
夏は透きとおる青緑。
秋は黄金の粒を含んでいて、
冬は、灰のように白んだ青――。
けれどそれらは、あくまで詩や想像の話。
誰も実際に、風の“色”など見たことはない。
――ただ、一人を除いて。
その子は、町はずれの空き地にいた。
名前は蓮という。十歳。小柄で、やや日焼けした頬。
どこか夢見がちな目をして、絵筆を手にいつも地面を見つめていた。
空き地の土に、指で絵具を混ぜて塗っている。
誰にもわからない“風の通り道”に。
誰にも気づかれない“見えない流れ”に。
蓮は毎日、色を置いていた。
灯守が彼に出会ったのは、風の強い晩春の午後だった。
駅から続く坂道を登った先、
草が伸び、塀が崩れかけた空き地で、
蓮は地面にしゃがみ込み、静かに何かを描いていた。
風が吹くたびに、細かい砂が舞い上がる。
しかし彼は動じず、空を仰ぐでもなく、
“地面に吹きつけた風”にだけ目を向けていた。
「君、何を描いてるんだい?」
灯守の問いかけに、蓮は振り返らなかった。
「……風の、色」
そう呟いたあと、小さな声で続ける。
「このあいだ、あの子が泣いてたから……今日は、オレンジにするの」
「少しでも、あたたかくなるように」
“あの子”――?
灯守が聞き返すと、蓮はうなずいた。
「風の中に、いるんだよ。ぼくにしか見えないけど、ちゃんといるの。
ときどき、くすくす笑ったり、ふいに泣いたりする」
「名前はないけど、“風の友だち”なんだ」
灯守はそっと腰を下ろし、少年の描く色を眺めた。
土の上に、淡い橙、やさしいピンク、にじむ水色。
それは絵というより、“誰かの感情を封じ込めた気配”だった。
まるで、そこにいた誰かがその場で涙を流し、
その涙を風が拭って、色にしていったかのように。
「君は、ずっとここで描いてるの?」
「うん。毎日来てる。学校より大事な日もあるから」
「どうしてそんなに、“あの子”に色を見せてあげたいの?」
少年は、少しだけ間をおいて答えた。
「だって、あの子……動けないんだ。
いつも同じ場所で、立ち尽くしてる。
風になっても、“ここから離れられない”んだって」
その言葉に、灯守の背筋が静かにぞわりとした。
まるで、“そこにいた誰か”が、少年の絵に縛られているような。
あるいは、少年のやさしさだけで、存在を保っているような。
その日の夜、灯守は町の図書室を訪れた。
古い新聞の切り抜きが保存されていた。
そして、十年前の小さな記事に辿り着く。
《市立第二小の校庭裏で、幼児が行方不明。
翌日、空き地で遺体発見。風の強い日で、足跡は消えていた――》
その空き地は、まさに蓮が“風の色”を塗っていた場所だった。
翌朝。再び空き地を訪ねると、蓮はまた、黙々と色を置いていた。
「ねえ、おじさん」
「なんだい?」
「“あの子”、きのう、ぼくにありがとうって言ったんだ。
“ここ、あったかいね”って」
蓮はふっと微笑んだ。
その笑顔は、どこか遠い、けれど確かに誰かと分かちあっているような――
灯守は旅帳を開き、静かにペンを走らせた。
「風に色はない。けれど、それでも“ぬろうとする心”は確かにある。
誰にも見えない存在に、誰かが手を伸ばし続ける限り、
この世界は、決して孤独ではない」
(第97話・了)
あとがき
誰にも気づかれなかった想いに、
そっと色を塗ってあげるような人が、この世界には確かにいます。
風のように儚い存在も、優しさに染まることで
ここにいた、と証明されるのかもしれません。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




