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『灯影百譚──見えぬものと、ひとの縁』  作者: にせもん


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第九十六話 雨鏡に映るもの

 その鏡は、決して空を映さない。


 町の北端にある古井戸――

 いまは誰も使わなくなった、苔むした石造りの井戸。

 その井戸の縁に、丸くて薄い手鏡がかけられている。


 錆びた鎖で結ばれ、取り外すこともできない。

 それでも雨が降ると、なぜか――

 鏡は静かに濡れ、そして“とある時間の映像”を映し出すのだという。


 午後三時。


 それが、その鏡に映る唯一の時間。

 それ以外の時刻は、いくら雨に打たれても、ただ曇るだけ。


 雨脚が強ければ強いほど、映像は鮮明になり、

 小雨の日は、影のように揺れて不明瞭になる。


 だが、町の人々はそれを“見てはいけないもの”として避けていた。


 灯守ともりがその噂を耳にしたのは、

 商店街の奥にある古道具屋でのことだった。


 薄暗い店内、ひときわ目を引くのは壁にかかった古地図だった。


 「この井戸、使われなくなって久しいが……昔は、“時間を閉じ込めた”って話があるんだよ」


 そう語ったのは、無精ひげを蓄えた店主。

 手には薄く破れた写真を握っていた。


 そこには、昭和の時代と思しき町並みと、

 その井戸の前に立つ、ランドセルを背負った少女が写っていた。


 「この子は……?」


 灯守の問いに、店主は言葉を選びながら答えた。


 「失踪したんだよ。ちょうど三十年前の、六月の午後三時。

  この町じゃ、忘れられない“雨の日”さ」


 井戸の前に立った灯守は、降りしきる雨に打たれながら鏡を見つめていた。


 午後二時五十九分。

 秒針はなかったが、彼の胸時計が静かに刻んでいる。


 やがて、ぽたり、と。

 鏡に映像が走った。


 最初は歪んでいた輪郭が、雨の粒に磨かれるように徐々に澄んでいく。

 そこに現れたのは――


 ――少女だった。


 赤いランドセル。

 薄緑のワンピース。

 左手には、紙袋を下げていた。


 彼女は鏡の中で、ゆっくりと井戸に近づいていく。


 そして、しゃがみこんで、何かを中へ落とすような仕草をした。


 「ねえ、だれか、これ――つかってくれるかな」


 音はなかった。

 だが、唇の動きを読めば、そう言っていた。


 それは、まるで時間の底に沈んだ記憶の一頁だった。


 少女の姿は、風に溶けるようにして消えた。


 鏡は曇り、再びただの水面に戻る。


 灯守は、その場に立ち尽くした。


 午後三時に、何があったのか――

 記憶は薄れ、記録は消え、今となってはもう、誰も明言できなかった。


 その夜、灯守は町の図書館へ向かった。

 新聞の縮刷版。

 六月――三十年前――午後三時――


 そこに、小さな囲み記事があった。


 《町立第一小学校近くにて、児童ひとりが行方不明に。

  帰宅途中、雨の中、最後に目撃されたのは旧北井戸の付近》


 “紙袋の中身”は発見されていない。

 彼女が何を井戸に落としたのか、わからないままになっている。


 ただ、その記事の隣に、担任教師の名が載っていた。


 「教師・水沢葵みずさわ・あおい、現在も捜索に協力中」


 灯守は、再び古道具屋に戻った。


 「水沢葵……この町に今も?」


 店主はしばらく黙ってから、頷いた。


 「まだいるさ。いまは……あの井戸の前に、毎日立ってるよ。

  午後三時だけ」


 翌日、午後三時。

 霧雨のなか、灯守はふたたび井戸へ。


 そこに、傘を差した老女がひとり立っていた。


 細い背中。色褪せたレインコート。

 視線は、鏡に釘付けだった。


 灯守は、彼女の傍に立った。


 「先生ですか?」


 老女はうなずいた。


 「ええ。私が……水沢葵です」


 「鏡に、彼女は映りましたか?」


 葵は、微かに微笑んだ。


 「ええ。毎年、六月になると、あの子は必ず来るの。

  同じ仕草で、同じ言葉で、鏡の中だけ、時間を繰り返してる。

  ……でもね、それが、もう苦じゃないのよ」


 「なぜですか?」


 「会えるから」


 「私は、あの日、叱ったのよ。

  みんなの前で、大きな声で。

  “もっと丁寧に片付けなさい”って。

  それだけのことで……あの子は、帰り道に紙袋を井戸に捨てたの」


 「謝るつもりだった。でも、もう遅くて……ずっと、後悔してた」


 「けれど、あの鏡があの子を映してくれる限り、私はここで謝れる」


 老女は、鏡に向かって深く頭を下げた。


 「ありがとう。ずっと見つけようとしてたの。

  ずっと、名前を呼びたかったのよ――玲奈」


 午後三時を一分過ぎると、鏡は再び曇り、何も映さなくなった。


 老女は静かにその場を去っていった。

 その背中は、どこか軽くなったように見えた。


 その晩、灯守は旅帳にこう記した。


 「雨の鏡は、空を映さない。

   映すのは、地上に落とした記憶。

   そして、それを拾う人がいる限り、忘れられた時間は確かに蘇る」


(第96話・了)



あとがき

誰にでもある、戻りたくても戻れない瞬間。

過去と対話することは叶わずとも、記憶の中に誰かが“今もいる”と感じられることが、

どれだけ心を救ってくれるか――。


この話が、あなたの中の“午後三時”に、そっと寄り添えますように。



ご感想をお寄せいただけると、とても励みになります。

もし気に入っていただけたら「応援」や「お気に入り登録」をよろしくお願いいたします。

次回も、灯の下でお会いできますように――。

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