第九十二話 雨が降ると現れる駅
その町に、“駅”は存在しない。
廃線になった鉄路は草に覆われ、地図からもその名は消え去っている。
けれど、雨の日の夕暮れ、たしかに“駅”が現れるのだという。
駅舎は小さく、木造で、軒先には錆びたランプがひとつぶら下がっている。
改札もなく、線路もはっきりしないが、そこには列車がやってくる。
ただし、乗れるのは「たったひと駅」、降りることはできない。
灯守がその話を聞いたのは、雨に煙る商店街の裏手。
古道具屋の老婆が、雨宿りがてら茶を出しながら、ぽつりと語った。
「うちの孫がね、小さい頃、あの駅で“おばあちゃんに会った”って言ったんですよ」
「その時、私はまだ生きていたから、不思議でねえ」
灯守はその夜、傘もささずに町を歩いた。
細い路地を抜け、廃線跡へ向かう。
濡れた石畳の先――
灯りが、あった。
古びた木製の看板。
「如月駅」と、滲んだ文字が刻まれている。
そこには誰もいない。
だが、確かに空気が変わった。
風も止み、雨音が遠のく。
まるで、音すら通さぬ境界に足を踏み入れたようだった。
しばらくすると、遠くから汽笛が聞こえた。
闇を切り裂くように、ひとつの列車が現れる。
蒸気を上げた車体、扉の開く音、無言の招き。
灯守は迷わず、乗った。
車内は薄明るく、古いベンチシートに、ぽつりぽつりと人影があった。
しかし誰も喋らない。
皆、窓の外を見ている。
そこには、町の記憶が流れていた。
ある者には失われた日常。
ある者には届かなかった別れ。
ある者には、やり直せなかった過去。
そして灯守の前に、ひとりの少年が座っていた。
懐かしい顔だった。
けれど思い出せない。
少年は言った。
「僕は、会いたい人がいたんです。
けど、もう会えなくて。
この列車に乗れば、会える気がして――でも、ずっと“ひと駅”のままなんです」
「誰に?」と問うと、少年は微笑んでこう答えた。
「それを、思い出す旅だから」
やがて列車は減速し、扉が開く。
誰も降りない。
駅はなく、ただ雨の闇が広がるばかり。
それでも、誰かの“心のどこか”に、確かに降りたのかもしれない。
灯守が気づけば、町の路地に立っていた。
雨は止み、あの駅も、列車も、どこにもなかった。
ただ、ポケットの中に、ひとつの切符があった。
それには、こう記されていた。
《かえりみち/一回限り》
灯守は旅帳にこう記した。
「思い出すための旅がある。
人は皆、いつか“戻る駅”を心のどこかに持っているのだろう。
そしてそれは、思い出すたびに、少しずつ形を変えていく」
(第92話・了)
あとがき
この物語は、思い出の“回送列車”をテーマに描きました。
もう戻れない場所、もう会えない人、
それでも心の奥に残る“たったひと駅”の記憶。
その中にある小さな救いを、静かに描いてみました。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




