第八十九話 空席のままの机
山あいの村に、すでに閉校となった小さな分校があった。
教室は今や物置となり、訪れる者もない。
だが、その教室の一角に、ひとつだけ“椅子のない机”が残っているという。
整然と並べられた木製の机と椅子。
けれど、その席だけがぽっかりと空白を抱えたまま、十年を経ていた。
灯守が分校を訪れたのは、秋の始まり。
冷たい風が山の木々を揺らし、空には高い雲が浮かんでいた。
「廃校になった時も、その机だけは誰も動かさなかったんです」
と、村の自治会長が言った。
「理由は……よくわからんのですが、みんな自然と、そのままにしてしまって」
灯守は教室の扉を開けた。
ほこりの積もる床、割れかけた窓、かすかに残るチョークの匂い。
けれど、空席の机の前だけは、不思議と風が抜けていた。
その机は、古く、表面に傷が多かった。
だが、その角に、子どもの字でこう彫られていた。
《あき》
名前か、あだ名か、それとも別の意味か――
それだけが唯一、その席にかつて誰かが“いた”ことを示していた。
灯守が教壇に立ってみると、空席の場所が妙に浮いて見えた。
そこだけ、他の席よりほんのわずか後ろに下がっているのだ。
まるで――
「前に出たくなかった誰か」が、
そっと一歩だけ身を引いたまま、そこに座り続けていたかのように。
当時の教師を探し出し、話を聞くと、ぽつりとこう言った。
「いたんですよ。“秋山明”くんっていう子が」
「物静かで、目立たなくて……けど、あの子は毎朝、教室の掃除を一番にしてくれててね」
「ただ……卒業式の前日に、急に転校してしまって。
いや、正確には、“いなくなった”んです」
「家族ごと、跡形もなく。引っ越しの連絡も、転校の手続きもなくて。
不自然すぎて、誰も深く触れようとしなかった」
それ以来、誰もその机に触れなかった。
触れてはいけないもののように、ずっと。
灯守は、夜の教室にひとり残った。
月明かりがガラス越しに射し、
白く机を照らす。
その瞬間、空席の机の上に――
文字が浮かび上がった。
《最後まで、名前を呼んでくれて、ありがとうございました》
《あの時間が、僕には宝物でした》
灯守は、目を閉じて、教室に向かって声をかけた。
「明くん、もう、帰ってきてもいいよ」
「もう君の席は、誰にも奪われないし、誰も君を責めないから」
その夜、風が教室を通り抜け、
空席の机に椅子がすうっと現れたような気がした。
けれど、それは翌朝には、また消えていた。
机の上には、小さな紙が置かれていた。
それは、落書き帳の切れ端に、子どもの筆跡でこう書かれていた。
《ありがとう。楽しかった》
灯守は旅帳に、こう記した。
「忘れられた席にも、物語は残る。
空席は、誰かが確かにそこに“在った”証なのだ」
(第89話・了)
あとがき
今回の物語は、“座られなかった席”に込められた記憶をテーマにしました。
教室の空席――
それはただの空白ではなく、声にならなかった存在への静かな祈りかもしれません。
この話が、あなたの過去の教室や、そこにいた誰かを思い出すきっかけになれば幸いです。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




