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『灯影百譚──見えぬものと、ひとの縁』  作者: にせもん


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第八十八話 灯籠の記憶

 夏の終わりの川辺に、灯籠が流される。

 それは死者の魂を送るための、年に一度の行事だった。


 白い和紙で包まれた枠の中に、

 蝋燭の火がほのかに揺れ、川面に星のように瞬く。


 けれどその中に、決して流れきらない灯籠がひとつあった。


 毎年、下流ではなく――

 上流の岩場に流れ着いているのが見つかるのだ。


 灯守ともりがその川辺に呼ばれたのは、八月の終わり。


 今年もまた、灯籠のひとつが“川を遡るように”戻ってきたという。


 「普通、流されれば橋の下で見失うんですが……」

 「この子だけは、どういうわけか、決まってあの岩の根元で見つかるんですよ」


 地元の青年がそう語る。

 その手には、濡れてほつれた灯籠の枠が握られていた。


 灯籠の底には、濃い墨で名前が書かれていた。


 《杉本 翼》


 だが、地元の戸籍にはそんな名はなかった。


 「この灯籠、十年前から毎年流れてくるんですよ。

  誰が出しているのか、わからないまま、ずっと」


 灯守は、日が沈むのを待った。

 川は穏やかで、蝉の声だけが夏の終わりを惜しむように鳴いている。


 そして、夜――


 その岩場に再び、“何か”が立っていた。


 人影のような、風のゆらぎのような。

 それは、言葉を発さず、ただ川の流れをじっと見つめていた。


 灯守が一歩踏み出したとき、

 風が川面をなで、岩の根元に止まっていた灯籠が、かすかに揺れた。


 蝋燭はもう消えていた。

 けれど、箱の中には、何かがあった。


 それは、小さな折り紙だった。


 丁寧に折られた鶴。

 裏には、震えるような字でこう記されていた。


 《お兄ちゃん、また来年、会えるかな》

 《川の上で、待っててね》


 その文字を見た瞬間、

 灯守の耳に、遠く誰かの声が届いたような気がした。


 「つばさ……」


 それは、幼い女の子の声だった。


 調査の末、灯守は知る。


 十年前、この町に避暑に訪れていた家族がいたこと。

 その年の川遊びで、幼い兄が溺れて亡くなったこと。

 そして、両親が事故の直後に町を離れ、それっきり消息を絶ったこと――


 だが、どうやら一人、町を離れなかった者がいた。


 遺された、妹だった。


 町に身を隠し、名を変えて暮らしていた彼女は、

 毎年、兄の名前を書いた灯籠を流し続けていたのだ。


 「でも、どうして……川を遡ってしまうんでしょう」


 灯守の問いに、少女はぽつりと答えた。


 「お兄ちゃん、まだ帰ってこないから……

  だから、戻ってきてるのかもしれない。

  ――あたしを迎えに」


 その年の灯籠流し、

 少女は初めて、川の岩場に立ち、兄の名前を呼んだ。


 「翼、おかえり――もう、迎えに来なくていいよ。

  あたし、もう大丈夫だから」


 その夜、灯籠は初めて――

 川を、下っていった。


 まるで、ようやく“送り出された”魂のように。


 灯守は旅帳にこう記した。


 「流れきらなかった灯籠は、誰かの想いを抱えていた。

   それは、戻ってくるためではなく――

   送りきれなかった時間を、ようやく渡るためだった」


(第88話・了)

あとがき

この一話は、「送れなかった想い」が時間を経て昇華される瞬間を描きました。


亡き人への手向けは、花や灯籠や手紙という形をとって現れますが、

本当にそれが意味を持つのは、想いが“渡された”ときなのかもしれません。


この物語が、あなたの記憶の片隅に小さな灯火を残せますように。

ご感想をお寄せいただけると、とても励みになります。

もし気に入っていただけたら「応援」や「お気に入り登録」をよろしくお願いいたします。

次回も、灯の下でお会いできますように――。

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