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『灯影百譚──見えぬものと、ひとの縁』  作者: にせもん


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第八十七話 音を忘れた鈴

 神社の奥に吊るされた、ひとつの古い鈴。

 重ねた時間のせいか、もう十年も音が鳴らないという。


 かつては、村の夏祭りの締めくくりに、この鈴の音で空を切った。

 鈴が鳴ったら、祭りは終わり――そして願いが空に届く。


 そんな言い伝えが、いつの間にか、

 「鈴が鳴らなくなったら、願いが届かなくなる」というものに変わっていた。


 灯守ともりがその神社を訪れたのは、まさに祭りの宵。

 赤い提灯が揺れ、人々の声が夜の空気を暖めている。


 けれど、本殿の奥に吊された鈴の前は、

 不自然なほどに静かだった。


 「音が鳴らんようになってからは、誰も触らんようになったとです」

 と、宮司の老女が語った。


 「怖いんでしょう。音がしないっていうのは、まるで……神様がここにおらんみたいで」


 灯守は、鈴の下に立った。


 鈴の表面にはびっしりと苔が這い、綱はすでに朽ちかけていた。

 それでも、どこか“まだ終わっていない”気配が残っていた。


 まるで、音だけが、記憶のなかに取り残されているような――


 祭りの喧騒が遠のき、夜も深まったころ。


 ひとりの少女が、鈴の前に現れた。


 まだ十歳にもならない、小さな体。

 けれど、その目だけは、歳月を越える静けさを湛えていた。


 少女は鈴にそっと手を触れた。


 「……お母さんが、この鈴を鳴らした夜に、いなくなったの」


 「でも、音はちゃんと聞こえたんだよ。

  すごく、きれいで、悲しい音だった」


 灯守は、少女の手の先に目をやる。


 その瞬間――

 鈴が、かすかに揺れた。


 音は、出ない。

 けれど、空気が震える。

 その振動が、耳ではなく、胸の奥に響いた。


 「音が出なくなったのは、たぶん、忘れられたからなんだと思う」


 「お母さんがいなくなって、誰もこの鈴を見なくなって、誰もお願いしなくなって……」


 少女の声が途切れたとき、ふと風が吹き抜けた。


 神社の森をわずかに揺らす、それは秋の気配を含んだ風。


 そして――

 かすかな鈴の音が、空を裂いた。


 りん……

 という、ほんの一瞬の音。


 誰もが気づかなかった。

 でも、その夜、少女だけが確かに“聴いた”。


 それは、“失われたはずの母の音”だった。


 後日、宮司が鈴を取り外したところ、

 中から一枚の紙が落ちてきたという。


 それは、濡れて滲んだ文字で、こう綴られていた。


 《この鈴に願いをかけます。

  どうか、私の娘が、強く生きられますように――》


 灯守は旅帳にこう記した。


 「音は、消えても、響く。

   鈴が鳴らすのは、声ではなく、想いの輪郭なのだ」


(第87話・了)

あとがき

人は、音で記憶を繋ぐことがあります。

ふとした鈴の音、風の音、誰かの足音――それが、過去を呼び起こす扉となることも。


この話では、“鳴らない鈴”が、それでも誰かの心に届いたという一瞬を描きました。

音が消えても、想いは鳴り止まない――そう信じて。



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次回も、灯の下でお会いできますように――。

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