第八十六話 椅子の記憶
町外れにある、もう使われなくなった小さな診療所。
そこには、ひとつの古びた木の椅子が残されていた。
座面は布張りで、肘掛けが左右についた重厚な造り。
けれど時間が刻んだ無数の傷が、その表面に静かに浮かんでいた。
日が落ちてから、その椅子がきしりと鳴るという。
誰もいない診察室で。
誰もいない夜に。
灯守は、その噂を確かめるために診療所を訪れた。
夏の終わり、風は重く、湿気を帯びていた。
窓の隙間から忍び込む夜風が、古い帳面を揺らす。
椅子は、診察机の向かいに置かれていた。
照明はなく、月明かりだけが床に落ちている。
灯守は何も言わず、ただその椅子を見つめた。
すると――
ほんの一度、木の軋む音が鳴った。
ぎ、と。
まるで誰かが腰かけ、身じろぎをしたような音だった。
「……やっぱり、ここには“誰か”がいるようですね」
灯守がそうつぶやいたとき、診察机の上のメモが風でめくれた。
そこには、色あせた文字が残されていた。
《最後まで、私は聞けなかった》
《この椅子に座った人の、心の奥を》
この診療所は、かつて精神科医だった男がひとりで開いていたという。
温厚で物静か、だがとても熱心な医師だったと町の者は語る。
「……話を“聞こう”とはしていた。でも、“聞けた”とは言えなかったのかもしれませんな」
かつての患者の家族はそう回想していた。
診察室に遺された記録の中には、何人かの相談内容が残っていた。
自傷の跡を隠した子ども。
戦争で記憶を喪った男。
望まぬ結婚に悩む少女――
誰もがその椅子に座り、言葉にならない何かを抱えたまま、
それでも“何かを残して”去っていった。
灯守はその夜、診療所の中で一晩を過ごすことにした。
月の光がやさしく、虫の声が遠く響く。
深夜二時、ふたたび――
ぎぃ、と椅子が軋む。
そして、誰かがすすり泣くような微かな声が、
耳ではなく胸の奥に響いた。
灯守は、そっと椅子の前にひざまずいた。
「……あなたは、誰の言葉を待っているのですか」
「それとも、あなた自身の声が、まだこの場所にあるのですか」
答えはなかった。
けれど、診察机の下に置かれた古びた木箱から、封のされた日記帳が見つかった。
そこには、医師の手による記述が並んでいた。
《私は、話を聞くことで人を救えると信じていた》
《だが、聞いても言葉にできぬものがあると知った》
《それでも私は、この椅子に残していく声を、消したくなかった》
《この椅子には、痛みと、祈りが、宿っている》
その日から灯守は、椅子に向かってひとつひとつ声をかけることにした。
「名前が言えなくても、大丈夫です」
「言葉にできないことは、たくさんあります」
「それでも、聞いていますよ――」
やがて、椅子の軋む音は消えた。
それは、もう“誰かがそこに居る必要がなくなった”という、
静かな別れのしるしだったのかもしれない。
灯守は旅帳にこう記した。
「聞けなかった声は、残響のように椅子に染みつく。
けれど、その記憶すらも、誰かが抱きとめれば救いになる」
(第86話・了)
あとがき
声なき言葉を、どこまで受け止められるのか。
この一話では、“話すこと”と“聞くこと”の間に横たわる、静かな断絶と和解を描きました。
誰かが心を開けなかった場所に、
別の誰かがそっと寄り添うことができれば――
椅子の記憶も、安らぎに変わるのかもしれません。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




