第八十四話 空蝉の約束
夏の終わり。
ある旧家の縁側に、今年もまた蝉の抜け殻がひとつ、同じ場所に現れた。
それは柱の節目にぴたりと張り付き、
まるで――
「ここで待っているよ」とでも言うように、誰かを迎えるかのようだった。
その家に住む老婆は言う。
「……あれはね、孫が亡くなった年から、毎年、決まって現れるんですよ」
「触れようとすると、不思議なことに、ふるふると震えるんです。風のない朝でも、ね」
灯守は、静かに縁側に腰を下ろした。
まだ朝の気配が残る時間。陽は高くなく、草の露が風を弾く音だけが聴こえる。
抜け殻は、確かにそこにあった。
色は薄く、形は儚く。
けれど、“在る”という存在感だけは、疑いようがなかった。
老婆は、少しずつ語り始めた。
十七年前のこと。
孫の晴哉は、家の裏の森で足を滑らせ、帰らぬ人となった。
まだ七歳だった。
夏の盛り、蝉がやかましいほどに鳴く中、
捜索の声すら蝉時雨にかき消されるような午後だったという。
彼が亡くなったあと、
その家にはぽっかりと静けさが訪れた。
あの騒がしい笑い声も、木の実を拾ってくる小さな足音も、もう戻らなかった。
けれどその翌年、
彼がよく遊んでいた縁側の柱に――
蝉の抜け殻が、ただひとつ、残されていた。
しかもそれは、蝉の声がすっかり止んだ八月の終わり。
本来、もう蝉など姿を消している頃だった。
「最初は偶然かと思いました。でもね、それが十七年、毎年続くんですよ」
老婆は、すっと目元を拭った。
「まるで、“ことしも来たよ”って……孫が帰ってきてくれるみたいで」
灯守は、抜け殻に手を伸ばしてみた。
その瞬間――
空気が、かすかに震えた。
抜け殻が、風のないはずの朝に、ふるりとわずかに揺れたのだ。
それは、「まだ、ここにいる」という
誰かの存在が、音ではなく形で語った瞬間だった。
その夜、灯守は老婆にお願いをした。
「明日の朝、縁側に座ってあの子の名前を呼んでみてください。
声は出さなくてもいい。心の中で、そっと語りかけてあげてください」
翌朝――
老婆が縁側に座ると、すでに抜け殻はそこにあった。
晴哉が亡くなったその時間と、同じ陽の角度で。
「……晴哉、おかえり」
そうつぶやいたとき、抜け殻がふたたび震えた。
そして、その年だけ。
抜け殻のそばに、小さな紙切れが落ちていた。
それは、幼い字で書かれていた。
《また、あそぼうね》
《ぼく、まってるよ》
誰もが信じなかった。
誰かのいたずらだと笑う者もいた。
けれど老婆だけは、静かにうなずいた。
「……あの子は、まだどこかで、夏を覚えているんですよ」
灯守は旅帳に、こう記した。
「空蝉は、殻になっても、記憶を宿す。
声を失った蝉も、約束を守りつづける。
たとえ、この世に名を残せずとも」
(第84話・了)
あとがき
この一話は、空蝉という言葉の持つ“魂の余韻”をテーマに描きました。
人は、誰かを失ったあとも、その存在の痕跡をどこかに探し続けます。
それがたとえ声も温度も持たない“抜け殻”であっても――
そこに残った約束が、心をつなぎとめてくれるのなら、それはきっと“生きている”のです。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




