第八十三話 風の声で話す人
その青年を、最初に見たのは林の奥だった。
陽の落ちかけた夕暮れ、木々が細かく揺れ、風が枝をすり抜けていく中で――
青年は、誰もいない方角に向かって、唇を動かしていた。
言葉は聞こえない。
けれど、確かに“誰か”に話しかけているように見えた。
町の者たちは噂していた。
「彼は、風の言葉を知っている」
「声を失った代わりに、風が彼の口になったんだ」
もちろん、誰も本気ではなかった。
けれどその青年を「気味悪い」と言う者も、「少しかわいそうだ」と言う者も、
結局は同じように、彼を遠巻きに見ていただけだった。
灯守は、風の噂を辿って森へ向かった。
晩春の風は、木々の間を優しく渡っていく。
葉が擦れ合う音は、何かの合図のように耳元に届く。
そして、林の奥――
青年はやはり、ひとり佇んでいた。
彼は、灯守に気づいても逃げなかった。
ただ、目で静かに“何か”を確かめるように見つめていた。
その瞳は、言葉よりも多くを語っていた。
「あなたは、聞こえる人ですか?」
そんな問いを投げかけるように。
灯守は近づき、同じように風の吹く方へ向き直る。
風が通り抜けた瞬間――
青年の口が、ゆっくりと動いた。
声は、やはり出ない。
けれど、確かに**「ありがとう」と言っていた**ように思えた。
青年の名は、風見 遼。
かつて事故で声帯を損ない、それ以来まったく話すことができなくなった。
家族は彼を心配したが、言葉のない彼との生活に次第に距離ができ、
やがて彼は森の近くにある古い空き家で、独りで暮らすようになった。
だが、灯守が彼と出会った日――
彼の暮らす小屋には、びっしりと風の観測記録が貼られていた。
風向き、風速、湿度、樹々の鳴る音――
彼は、風と会話する手段を「観察」に見出していたのだ。
灯守は問いかける。
「……君が風に話していたのは、誰に向けて?」
青年は、そっと振り返り、壁の奥の一枚の便箋を指差した。
そこには、手書きの文字でこう綴られていた。
《妹の葬式のとき、言葉を失っていた自分が何もできなかったことを、今も悔いている。
けれど、風なら、あの子の眠る丘まで届くと思った。
だから、ぼくは話す。声はないけれど、風の中でなら、想いは届く気がする》
灯守は胸の奥が震えるのを感じた。
風は確かに目には見えない。けれど、人の手では届かない遠い場所に、
想いを運ぶ“何か”を含んでいるのだ。
次の日も、またその次の日も――
灯守は青年と並んで立ち、風の中に耳を澄ませた。
何も言葉が交わされない日もあった。
けれど、風が吹くたびに、心のひだがやさしく撫でられるようだった。
数日後、灯守はその丘を訪ねた。
風見遼の妹が眠る、小さな共同墓地。
雑草の中に、ぽつんと白い小石が置かれていた。
その石には、風で削られた文字があった。
「きこえてるよ」
灯守は旅帳にこう記した。
「風の声で語る人は、誰よりも深く、祈るように話している。
音のない言葉こそ、最も遠くへ届く力を持っているのかもしれない」
(第83話・了)
あとがき
この物語は、言葉の届かないもどかしさと、
それでも誰かに想いを伝えたいという願いに焦点を当てました。
音がなくても、語ることはできる。
そして、風のように見えなくても、届くものがあると信じていたい。
そう思って、この一話を書き上げました。
ご感想をお寄せいただけると、とても励みになります。
もし気に入っていただけたら「応援」や「お気に入り登録」をよろしくお願いいたします。
次回も、灯の下でお会いできますように――。




