第八十一話 雨宿りの狐火
夕暮れの町。
しとしとと静かに降り始めた雨は、音もなく景色を溶かしていった。
傘を持たぬまま、神社の鳥居の下にぽつりと立つ子どもがいた。
黒髪に白いワンピース、目元に水のような寂しさをたたえている。
「……変なんだよ。声をかけようとしても、誰も近づけないんだ」
町の人々は皆、すれ違っても立ち止まらず、
気づいたようでいて、すぐに記憶からその子をこぼしてしまうという。
まるで、そこに“在る”のに、“いない”もののように。
灯守は、その話を聞き、神社へと向かった。
時刻は、午後五時を少し回った頃。
鈍い雲が低く垂れ込め、空の端に雷の音が転がっていた。
鳥居の下、やはり子どもはそこにいた。
けれど――
灯守には、はっきりと、その姿が見えていた。
濡れた足元。白い頬に伝う雨のしずく。
そのひとつひとつが、“今ここにいる”ことを証明していた。
灯守は、彼女のそばに立った。
「雨宿りしてるのかい?」
子どもは小さくうなずいたが、口はきゅっと閉じたまま。
それでも、誰かに“見られている”ことに、安堵したように揺れた。
灯守が傘を差しかけようとした、そのとき。
彼の足元に、青白い灯が揺らめいた。
火種は音も立てずに浮かび、ぴたりと宙で止まる。
まるで「ここが、彼女の居場所だ」と告げるように。
それは――狐火だった。
神社の宮司に話を聞くと、こんな伝承が残っていた。
《昔々、このあたりでは、雨の日になると狐火が現れたという》
《それは、山の神が置いていった“忘れられた傘”の記憶だった》
《誰にも拾われなかった祠の子。声を失った神の使い》
《雨の日だけ、帰り道を探しに降りてくる》
つまり、あの子は――
神に祀られることも、祈られることもなかった“名もなき願い”の化身なのだ。
その夜、灯守は神社の境内に一晩泊まることにした。
子どもは、ぽつりぽつりと話をし始めた。
「おかあさん、ずっと待ってるの」
「いつか、むかえにくるって。……でも、こないの」
「わたし、もう歩きかたも忘れちゃった」
灯守は、そっと青い火の中に手を伸ばした。
熱くない。ただ、やさしい光。
それはまるで、凍えた手を握ってくれる誰かのようだった。
そして彼は、傘をひとつ――
彼女のために置いた。
それは、彼がかつて、誰かの墓前に供えた小さな和傘。
持ち主を失ったまま、旅の荷物にずっと入っていたものだった。
翌朝、子どもの姿はなかった。
だが、鳥居の下には雨のあとと、
その傘をさしていた小さな足跡が二つだけ残されていた。
ひとつは、神社の奥へ。
もうひとつは、山の方へ、風に流れるように消えていた。
灯守は旅帳にこう記した。
「傘の記憶が、誰かの声を忘れぬように。
誰にも拾われなかった願いにも、帰り道がある」
(第81話・了)
あとがき
人は誰しも、忘れられたくないと願いながらも、
いつか忘れられていく運命を受け入れなければなりません。
この話は、“忘れられる側”の願いに耳を澄ませたくて描いたものです。
誰かに祈られなくても、灯火は灯るのだと、信じたくて。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




