第七十八話 返事のない呼び鈴
町の片隅にある一軒家。
そこに暮らす老婦人は、ある夜から奇妙な出来事に悩まされていた。
「夜の八時ぴったりに、呼び鈴が鳴るんですよ。
でも出ても、誰もいない。気配すらなくてね……」
老婦人は最初、風のせいだろうと気にも留めなかった。
けれど、毎晩同じ時間に鳴る呼び鈴は、
まるで“習慣”のように続いた。
灯守がその家を訪れたのは、秋の終わり。
玄関先には古いベル式の呼び鈴があり、
錆びついているはずなのに、澄んだ音を奏でていた。
夜八時。
家中の灯りを消し、静かにその音を待つ。
――チリリ、チリン。
やがて、空気を震わせるように、小さな音が鳴った。
灯守は玄関を開けた。
すると、門の前にぬいぐるみがひとつ、そっと置かれていた。
手には、折りたたまれたメモ用紙。
そこには、鉛筆の文字でこう書かれていた。
「ごめんなさい。おかえりって言いたかっただけなんです」
老婦人はその文を見て、ぽつりと口にした。
「昔ね、近所に住んでいた子がいたんです。
お母さんにいつも叱られてばかりで、
私の家の前まで来ては、ただ立って帰っていく子」
灯守は気づいた。
あの子は一度も呼び鈴を鳴らさなかった。
でも、鳴らしたいという気持ちは、心に残っていた。
――いつか、誰かが扉を開けてくれることを。
その想いが、形を変えて届いたのだ。
名もない誰かの、鳴らせなかった音。
老婦人は、ぬいぐるみを玄関の棚に飾り、
その横に、小さな張り紙を添えた。
「いつでも、おかえり」
それ以来、呼び鈴は鳴らなくなった。
けれど、夜の八時になると、
家の前の灯りだけが、静かにともるようになった。
灯守は旅帳にこう記した。
「呼び鈴は、声にならなかった“ただいま”の音。
誰かの心が、そっと叩いた扉が、今日ひとつ開いた」
(第78話・了)
あとがき
人は時として、扉を叩く勇気が出せないものです。
それでも、想いは届こうとする――形を変えてでも。
今回の話は、言えなかった「ただいま」と、それを待つ「おかえり」を描きたくて紡ぎました。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




