第七十六話 冷めない湯飲み
古道具屋「うたかた堂」の棚の奥。
埃をかぶった品々の中に、一つだけ湯気を立てている湯飲みがあった。
白磁に薄青の唐草模様。ひび割れもない、けれどどこか――“哀しい温もり”。
「お湯を注ぐと、ずっと熱いままなんだよ。不思議だろう?」
店主の老人は笑うが、その声は少し震えていた。
「だけどね……誰が飲もうとしても、湯飲みに唇を近づけると、
まるで逃げるように、湯気がふっと消えてしまうんだ」
灯守は、その湯飲みに触れてみた。
たしかに、湯は熱い。
でも――なにかに触れようとすると、その熱がすり抜ける。
店主が語った。
かつてこの湯飲みは、ある若い職人が作ったもので、
彼はこの湯飲みを、母のために焼いたのだという。
だが、母は彼がそれを渡す前に病で倒れ、
息子が帰る前に、この世を去った。
渡せなかった湯飲み。
注がれなかったお茶。
かわされなかった言葉。
それらが湯飲みに宿り、“冷めることのない温もり”だけが残ったのだ。
灯守は、そっと湯飲みを前に置き、自分でお湯を注いだ。
そして、誰に向けるでもなく言った。
「おかえり。お茶、いれてあるよ」
その瞬間、かすかに香ばしい香りが立ちのぼり、
ふわりと、湯気が揺れて、形を結んだ。
それは、小さく手を合わせる母の影だった。
湯飲みは、はじめて静かに冷めた。
その翌日、「うたかた堂」の湯飲みは棚から消えていた。
店主は、灯守にだけこう告げた。
「……あの子、ようやく帰ってこられたみたいだよ」
灯守は旅帳にこう記した。
「冷めぬ湯は、渡せなかった温もりの証。
言えなかった“おかえり”が、器の中に残っていた」
(第76話・了)
あとがき
温かいお茶を誰かに淹れるという行為には、
ただの習慣以上の“想い”が込められている気がします。
渡したかった温もり、届けられなかった一言――
それが器に宿るなら、きっとそれは“記憶の器”なのだと思います。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




