第七十五話 名前を呼ばれたことのない木
町のはずれに、一本の木が立っている。
樹齢はおそらく三百年以上、幹はねじれ、枝は天を裂くように伸びていた。
けれどその木には、誰も名前をつけたことがないという。
「お社の神木でもなければ、目印にもならない。
それでいて、なぜか伐られずに残されているんです」
町の古老は、そう言って小さく首をかしげた。
灯守がその木を訪れたのは、雨の翌日だった。
根元には古い踏み石があり、まるでそこに人が立っていたような跡が残っていた。
そして――
夜になると、木のあたりから「誰かの名前を呼ぶ声」がする。
それは、はっきりした言葉ではない。
けれど、遠くで風に乗った呼びかけのように、誰かの名を探している声だった。
灯守は三夜、木の前に立った。
一夜目は、少女の声で「おとうさん」と。
二夜目は、老人の声で「たえこ」と。
三夜目は、誰とも知れぬ声で「……わたしを、よんで……」と。
その声は、どうやら“人の名を呼んでいる”のではなく――
**「自分の名前を呼ばれるのを、待っている」**ようだった。
ある村の古記録を調べた灯守は、一節を見つける。
《名を持たぬ木は、千の名を胸に抱く。
誰にも呼ばれなかった名が、風となってその木に宿る》
灯守は、その木の前に立ち、小さくつぶやいた。
「君に名前をつけよう。今日から君は、“ひこもり”だ」
ひっそりと、こもる想いを抱いていた木だからだ。
すると風が吹いた。枝葉が揺れ、
それまで濁っていた呼び声が、ひとつの音に変わった。
「――ひこもり」
それは、初めて誰かに名を呼ばれた声だった。
木は微かに、幹を鳴らし、根を震わせ、
あたりの空気が、やわらかくほどけた。
灯守は旅帳にこう記した。
「名を呼ぶことは、存在を許すこと。
名をもらえなかった想いたちが、あの木に眠っていた」
それ以来、“ひこもりの木”と呼ばれるようになったその木は、
名前を呼ぶ者には、春先にだけやわらかな花を咲かせるという。
その花に香りはない。ただ、風にそっとゆれる。
(第75話・了)
あとがき
名前とは、存在を照らす灯のようなものです。
名もなき存在が呼びかけられるとき、その存在は確かに世界に浮かび上がります。
名づけることの重みと、名を与えられなかったものの哀しみを、この話に込めました。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




