第七十二話 記憶の抜け落ちた郵便屋
古びた郵便鞄を提げて、毎夕五時に坂を上る男がいた。
制服のようで制服でない、
靴音がしない、不思議な足取りのその男は――
町では「白紙屋」と呼ばれていた。
彼が配る手紙は、すべて宛名も文面も白紙だった。
けれど、それを受け取った者たちは、皆、なぜか涙を流すという。
「文字がないのに、心がざわつくの。
手紙を見てるだけで、胸の奥に誰かの声が浮かぶのよ」
町の豆腐屋の女将は、そう語った。
灯守は、彼を追った。
夕暮れの坂道、ゆっくりと歩くその後ろ姿は、まるで――
**“過去の風景そのもの”**のようだった。
「……あなたは、誰のために届けているんですか?」
声をかけると、郵便屋は振り返らずに答えた。
「……わかりません。でも、手が、勝手に配ってしまうのです」
その声は、音を失った鐘のように空虚だった。
翌日、灯守は町の人々に話を聞いた。
かつてこの町には、小さな郵便局があり、
そこに勤めていた若者がいたという。
彼は手紙を書くのが好きで、
配達の傍ら、“出せなかった手紙”を預かる習慣があった。
――「この手紙は、もう出せないけれど、誰かに届いたらいい」
――「ここに書いた気持ちだけは、無くさずにいたい」
彼はその手紙を、いつか宛て先ができる日までと、鞄にしまっていた。
だが、ある日、彼は事故に遭い、
記憶のすべてを――名前さえも失ってしまった。
残ったのは、白紙のように真っ白な心と、
かつて受け取った“想いの重み”だけだった。
灯守は、一通の白紙の手紙を受け取った。
封を開けると、風が吹いた。
便箋の表面がかすかにざわめき、
誰かの「ありがとう」の声が、耳の奥に届いた気がした。
灯守は、かつての郵便局跡に小さな石碑を建てた。
そこに、こう記した。
「ここに、名もない配達人がいた。
言葉にならぬ手紙を、静かに届け続けた者がいた」
その日以来、町では白紙屋を見かけなくなった。
だが、雨の日や風の強い夕方に、
ポストの中に白紙の手紙が入っていると、
町の人々は、そっとそれを胸に抱き、目を閉じる。
灯守は旅帳にこう記した。
「言葉は記憶を結び、
白紙でさえ、届く想いがある」
(第72話・了)
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




