第七十話 捨てられた名前のつくも神
古道具屋の軒先、埃をかぶった木札があった。
書かれていたのは、かすれた文字。
「〇〇たろう」
何百という名の中で、ただそれだけが、読み取れない名札だった。
灯守が訪れた町の市場裏。
時代に取り残されたような古道具屋の店主は、こう言った。
「あの札には、名のつくも神が憑いてるんですよ。
名前を捨てられた神さま、ね」
その神は、何の道具に宿っていたのかすら分からない。
名前を失い、役割も忘れ、ただその木札にだけ残った存在。
それでも、**人の気配があると、かすかに“名乗ろうとする声”**が聞こえるという。
灯守は夜、ひとりその札の前に座った。
風もなく、灯りもない中で、確かに耳に届く。
――「……お……た……う……」
名の端々が、どこか哀しげに揺れていた。
翌日、灯守は市場の古老たちに話を聞いた。
「昔なあ、“おこたろう”って鍋があったんじゃ。
火鉢と鍋とが一体になったやつでな。
あったかくて、名前も親しまれてて……でも、すっかり忘れられてな」
「“おこたろう”……?」
どこか愛らしく、親しみを込めた名。
灯守がその名を札の前で呟いた瞬間、風が吹いた。
埃が舞い、札の文字が、一瞬だけ、**“おこたろう”**と読めた。
その夜、灯守は夢の中で彼と出会った。
背丈も半分、手足が丸く、目の代わりに火の玉を宿した、
あたたかそうな小さなつくも神。
「わすれられて、かなしかった」
「でも、おぼえててくれて、うれしかった」
目を覚ましたとき、札はすっかり焦げ色になっていた。
それは、本来宿っていた火鉢鍋の色だったのだ。
灯守は旅帳にこう記した。
「名は、形を超えて魂となる。
忘れ去られた名にこそ、宿る想いがある」
古道具屋の棚の奥で、焦げた札は静かに眠っていた。
その隣には、小さな火鉢が一つ、新しく置かれていた。
(第70話・了)
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




