第六十九話 眠れない町の時計塔
その町には、夜になると逆回転する時計塔があった。
昼間は何の変哲もない、普通の古い時計塔。
だが、夜中の零時になると――
長針も短針も、静かに、逆向きに動きはじめるのだという。
町の者はそれを「眠れない時間」と呼んだ。
灯守が町を訪れたのは、冬の入り口。
空気は澄み、時計塔の鐘はひび割れた音を響かせていた。
「夜中、あの塔を見つめ続けるとね……夢の中で、“戻りたい時”を見せられるのよ」
駅前の喫茶店で、老女がそう語った。
「ただし、“今”に戻れなくなる人もいる。
誰もが一度は、戻りたい過去を持っているからね」
灯守は、時計塔のふもとに佇んだ。
町の灯りがまばらに灯る中、塔は冷たくそびえ立っていた。
深夜、塔の時計は音もなく逆回転を始めた。
その針を見た瞬間――
灯守の意識は、ひとつの記憶に吸い込まれた。
――母の手。
冬の縁側で、一度だけ撫でてくれた温もり。
それはもう失われた時間の、ひとひらだった。
気づけば、町のあちこちで、うたた寝する人々が塔を見上げていた。
誰もが静かに目を閉じ、過去の記憶に“還って”いた。
その中に、一人だけ目を開けたままの青年がいた。
「戻れるなら、何度でも戻りたいと思ってた。
でも、過去を見すぎて、もう“今”の顔を忘れかけてた」
彼の声には、迷いと痛みが滲んでいた。
灯守は彼に問うた。
「それでも、ここに立っているのはなぜですか?」
青年は、少し考えてから答えた。
「……誰かに、“今”を見ててほしかったから」
夜が明けると、時計塔の針は正しく回り始めた。
町は静かに動き出す。
誰もが少しだけ“やわらかい顔”で歩き出す朝。
きっと彼らは、もう“今”を少しだけ大事にするのだろう。
灯守は旅帳にこう記した。
「過去は、眠れぬ夜の影。
けれど、誰かと分かち合えれば、“今”へ戻れる灯火にもなる」
時計塔の鐘は、いつもより少しだけ澄んだ音で鳴っていた。
(第69話・了)
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




