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第五話 水鏡の月

 水に映った月は、もうひとつの世界の扉だ――と、そんな昔話を聞いたことがある。


 それは湖でも、ため池でも、あるいはただの水たまりでもよい。

 風のない夜、きれいに月が映るならば、その下には“もうひとつの月”があるという。


 ――その月に、呼ばれる人がいる。


 灯守ともりは、旅先でその池に出会った。


 谷あいの集落に一泊することになり、宿の老婦人からこう言われた。


「夜になってもあの池に近づいたらいけませんよ。……月に、引かれるからね」


 それは冗談めかしていたが、どこか本気のような響きだった。


 それに、灯守には聞こえたのだ。


 “来て”という、小さな声が。


 夜、灯守は宿を出た。


 星の出ない夜だった。雲も風もなく、空は静かに満ちていた。


 集落から山を少し登った先に、それはあった。


 木々の影に囲まれた、静かな水面。


 水は鏡のようで、まるで空よりも澄んでいるように感じた。


 灯守は、池のほとりに立った。


 その瞬間――水面に、“誰か”が立っていた。


 月の真ん中、逆さまの空に、白い影が揺れている。


 だが、それは水面の中にしか見えなかった。


「……見えているのか」


 声が、水の底から聞こえた。


 それは、まるで遠い鈴の音のようだった。


「わたしは、“水の下の神”……」


 影はそう名乗った。かつては祠があり、村人たちが月を祀っていたという。


 だが、時は流れ、信仰は絶え、祠も消えた。


「忘れられた神は、やがて名も失う。わたしもまた……沈んだままだ」


「……それでも、君はここにいる」


 灯守の声に、影はわずかに揺れた。


「なぜ、来た」


「声が聞こえた。呼ばれたような気がした」


「なぜ、応じた」


「そういう声に応じるのが、俺の役目だから」


 灯守はそう言って、池に手を差し出した。


 水面は揺れなかった。彼の手は、まるで鏡に触れているようだった。


「願いがあるのか」


「ないよ。ただ、君のことを知っておきたかった」


 影は、しばらく黙った。


 やがて――微かな笑い声が、水面の奥から響いた。


「……それは、ひさしぶりに聞く、正直な言葉だ」


「灯を、ひとつ渡そう」


 神はそう言って、池の底から“光る珠”を浮かび上がらせた。


 それは手のひらほどの丸く澄んだ光で、月のようにやわらかく輝いていた。


「この灯は、おまえが“ほんとうに迷った時”にだけ、照らすものだ。道を示すのではない。ただ、心の底にある“本音”を映す」


「名前は?」


「名は……もうない。だから、おまえが好きに呼べ」


「……じゃあ、“みなも月”と呼ぶよ」


 そう名付けると、珠はすこしだけ強く光った。


 その夜、灯守は夢を見た。


 水の中に月がふたつ。ひとつは天に、ひとつは湖底に。


 どちらも本物で、どちらも儚い。


 ただ、見ようとする人の心で、それぞれ違う“輝き”を持つのだという。


 翌朝、灯守が池を訪れると、そこにはもう何もなかった。


 水面はただの水。月の姿も影もない。


 けれど、ポケットの中には――ひとつの珠が、そっと残されていた。


(第5話・了)

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次回も、灯の下でお会いできますように――。

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