第六十一話 泡になった街
その街には、ぽっかりと穴があった。
地面ではない。建物でもない。
記憶の穴だった。
地図には通りがあるのに、そこには何もない。
住人に尋ねても「最初から何もなかった」と首を傾げる。
けれど、灯守が見たとき、そこには白い泡が舞っていた。
海沿いの港町・日間岬。
入り組んだ坂道と、古い家並みのあいだに、その泡は現れた。
音もなく、ふわふわと空に昇っていく。
ある者は「潮霧だ」と言い、
ある者は「春の風だろう」と笑った。
だが、子どもだけが怯えた顔でこう言った。
「あそこ、さわっちゃだめだよ。消えちゃうから」
灯守は、泡が立ちのぼる中心部に足を踏み入れた。
そこは、妙に静かだった。音が吸い込まれるような感覚。
風の流れも変わり、温度も、匂いも、現実感さえ薄れていく。
ひとつ、泡が目の前を通った。
触れずとも、その中に――誰かの姿が見えた。
微笑む女性、店先で立ち話をする老人、ランドセルを背負った子。
それは、街がまだ“あった頃”の風景だった。
泡が弾けると、記憶も弾けた。
灯守の頭に、一瞬だけ光景が流れ込んだ。
小さな喫茶店。ガラス越しの猫。
港を見下ろす坂道に並んだ白壁の家々。
だが、それはすべて――今の地図から消えていた。
その晩、港の資料館で、古い航路図を見つけた。
そこには確かに、**「潮路町」**の名前があった。
今では誰も語らぬ町名。
あったはずの通りが、泡のように失われた街。
灯守は、町の古老を訪ねた。
その老婆は、ゆっくりと答えた。
「……潮路町? ああ、それは“忘れたほうがよい場所”さ」
「大きな火事があってね。
誰も残らなかった。けど、みんな“忘れよう”って決めたのよ」
「泡はね、“忘れられた想い”が形になったものさ。
あのあたりに残っているのは、想いだけなんだよ。
“記録”じゃなく、“心”にしか残らない類のね」
泡の中心に、ひとつだけ立つ標識があった。
錆びついたそれには、かろうじてこう書かれていた。
「潮路町一丁目」
灯守は、その場に小さな灯をともした。
数日後、泡の立ちのぼる数が目に見えて減った。
人々は不思議がったが、
誰も「何があったか」を話す者はいなかった。
ただ、一人の老婦人が灯守に手紙を託した。
「ありがとう。あの泡の中に、私の息子もいた。
毎朝通っていた小道も、あの喫茶店も。
もう思い出せないけど、あなたが覚えていてくれるなら、それで十分です」
灯守は旅帳にこう記した。
「記憶は、泡のように儚くとも、
それを誰かが拾い上げれば、また形になる」
日間岬に残る泡は、やがて潮風にさらわれ、空へと溶けていった。
けれど、港の片隅に咲いた一輪の白い花だけが、
その場所を、確かに記憶していた。
(第61話・了)
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




