第六十話 狐火の渡し
それは、秋の終わりにだけ現れる。
里の外れ、霧の立つ川辺――
夜になると、水面に**青白い狐火**が浮かぶ。
風がないのに、揺れ、踊るように動き、
やがて一本の橋のような光の道になる。
それを「狐火の渡し」と呼ぶ者たちはこう語る。
「あれを渡ると、ひとつだけ願いが叶う」
「だが、渡った者は、何かを川に置いていかなければならない」
灯守がその地を訪れたのは、
夜露に野草が濡れる、十一月の静かな晩だった。
里人たちは警戒心を露わにし、こう言った。
「見ないのがいちばんだ。願いなんて、叶わんほうがいい」
それでも灯守は、川辺に向かった。
川は音もなく流れていた。
その上に、まるで誰かが置いたかのように灯火の列が並ぶ。
狐火は、すうっと川の上を滑るように漂い、
やがて向こう岸へと続く光の橋となった。
その光の先には、ひとつの影が立っていた。
白い着物を纏い、狐面をつけた背の低い人物。
それは、灯守が知る「ヒトの影」ではなかった。
近づくと、狐面の奥から、やさしい声が響いた。
「願いがあるなら、こちらへどうぞ。
ただし、渡るなら――何かひとつ、置いていくこと」
「記憶でも、声でも、形でも。
その人にとって“大切なもの”でなければ、灯は渡せません」
灯守は、問う。
「願いを叶えた人々は、どうなったのですか?」
狐面は微かに傾き、こう答えた。
「渡って戻ってきた者は、皆、何かが欠けていた。
けれど、笑っていたわ。“それでもよかった”って」
かつて、母を失った少女がいた。
彼女は願った――「もう一度だけ、母に会いたい」
狐火の渡しで、それは叶えられた。
けれど、戻ってきた彼女は、母の名も、顔も、言葉も忘れていた。
ただひとつ、手にしていたのは母が縫ってくれた人形だけ。
別の男は、死に別れた恋人と引き換えに、自分の“声”を置いてきた。
以来、彼は一言も話せなくなったが、
それでも、恋人の手紙を抱えて笑っていたという。
灯守は、静かに光の橋を見つめた。
その先に、もしも「かつて出会った誰か」がいたとして、
願えば、再び会えるのかもしれない。
けれど――彼は、渡らなかった。
代わりに、懐からひとつのものを取り出して、川辺に置いた。
それは、旅の途中で拾った、ある少女から預かった折鶴。
灯守は、そのまま振り返ると、言った。
「この橋は、願いのためのものじゃなく、
“想いを手放す”ためのものなんですね」
狐面は、初めて口元だけを緩めて、笑ったように見えた。
そして、光の橋は、するすると川に吸い込まれ、
狐火は一つ、また一つと消えていった。
翌朝、川辺には何も残っていなかった。
ただ、枯れ葉に埋もれた折鶴だけが、
静かに、風にたなびいていた。
灯守は旅帳にこう記す。
「願いとは、叶うことではなく、手放せる強さのことかもしれない」
(第60話・了)
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




