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『灯影百譚──見えぬものと、ひとの縁』  作者: にせもん


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第五十八話 風見鶏の止まる日



 海を望む丘に、ひとつの古い洋館がある。


 赤茶けたレンガ造り、蔦に覆われた壁、そして――

 屋根の上には、いつも西を指し続ける風見鶏が立っていた。


 地元の人々は、あれが動かないのは「潮風のせいだ」と笑っていたが、

 それは違った。


 ある日、その風見鶏が、完全に止まった。


 止まった翌朝から、洋館では“奇妙な現象”が起こり始めた。


 時計が逆に動いたり、写真の中の人が少し違っていたり、

 昨日したはずの会話が、まるでなかったかのように消えている。


 洋館の主は言った。


 「どうも、時間が混ざってしまったようだ」


 灯守ともりがその館を訪れたのは、梅雨の合間の晴れた日だった。


 館の扉は、来訪者を待っていたかのように、軋む音を立てて開いた。


 応接間には、古びた懐中時計がずらりと並べられていた。


 すべてが微妙に違う時を刻んでいる。


 「この家にはね、記憶を留める装置があるのよ」と語ったのは、

 館に住む老婦人だった。


 彼女は、紅茶を淹れながら静かに語り始めた。


 「かつて、婚約者がいたの。

  海の向こうへ航海に出て、戻るまでこの館で待っていた」


 「彼は言ったの。“風見鶏が動いたら、帰ってきた合図だ”って」


 だが、風見鶏は一度も動かなかった。

 老婦人は、その日からずっとこの館で待ち続けていた。


 日々、風を読み、潮の香を確かめ、毎日、窓を磨いていた。


 「ある日、気がついたら、私、何年待っていたのかも忘れていて……

  時間も記憶も、すべてが曖昧になっていたのよ」


 風見鶏が止まったのは、その日だった。

 記憶と時が“飽和”して、もう前にも後にも動かなくなった日。


 灯守は、屋根裏へと向かった。


 風見鶏の根元に、小さな手紙が差し込まれていた。


 「もし、これを読む人がいたなら――

  どうか、彼女に伝えてほしい。

  俺は無事に戻った。ただ、風が戻る場所を間違えた。

  だから、今も向かっている」


 手紙の日付は、数十年前。

 どうやら風見鶏が動かなかったのは、潮風ではなく“呪縛”のせいだった。


 灯守は、風見鶏に手を添えた。


 すると、それは、かすかに軋みを立てながら東を向いた。


 ちょうどそのとき、海から風が吹いた。


 老婦人は、窓のそばに立ち、目を細めていた。


 「……帰ってきたのね」


 その瞬間、すべての時計が、同じ時刻を指した。


 そのあと、館は不思議と時間の混乱を起こさなくなった。


 記憶も、過去も、未来も、それぞれの場所へ戻っていった。


 灯守は、館を出るとき、老婦人から懐中時計をひとつ託された。


 裏には小さく、こう刻まれていた。


 「また、めぐりあう風のなかで」


 彼は旅帳にこう記した。


 「風が止まるとき、人は止まる。

   けれど、風がまた吹けば、記憶も時間も旅を続ける」


 その夜、風見鶏は静かに北を指していた。


 まるで、新しい旅路を告げるかのように。


(第58話・了)

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次回も、灯の下でお会いできますように――。

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