第五十六話 音もなき合奏
それは、もう何十年も使われていない廃校だった。
山の中腹、杉と楓に囲まれた校舎。
土の匂いと木の軋みが染み込んだ、木造二階建て。
夜になると、その二階の音楽室から音が聞こえるという。
校歌でも、流行り歌でもない。
重なる音色。けれど、それは誰も知らない旋律。
灯守は、夕暮れ前に校舎へと足を踏み入れた。
床はしなるが、しっかりとしていた。
机や椅子は片付けられ、廊下の壁には、昭和のポスターが色褪せて貼られている。
音楽室の扉には、「合奏部」とかすれた札がぶら下がっていた。
扉を開けると、そこには――
無人のまま、整えられた譜面台と椅子が並んでいた。
埃は少ない。
毎晩、誰かが手入れをしているかのようだった。
ピアノの蓋は開かれたまま。
黒鍵と白鍵の境目には、指のあとがうっすらと残っていた。
やがて、陽が沈み、窓の向こうに夜が満ち始める。
そして――
音が、鳴った。
最初は、木管の柔らかな音。
それに、弦が重なり、金管が広がる。
静かに、しかし確かにそこに合奏が“在った”。
けれど、見渡しても、奏者の姿はない。
譜面台の上には、どれも白紙の楽譜が置かれていた。
音は、どこからともなく湧き上がる。
けれど、それは決して幻ではなかった。
心に染みる音だった。
灯守は、音の流れに身を任せた。
ふと、隣の席に、誰かが座った気がした。
目を向ければ、影のような人影が、フルートを構えている。
その隣には、バイオリンの少年。
後方には、チューバを持った老人の姿も。
皆、声を発さず、ただ音に身を任せていた。
それぞれが、生前に未完成だった楽章を奏でているのだろうか。
あるいは、もう会えない誰かに、音で想いを届けているのかもしれない。
その中に、一人の少女がいた。
手には、指揮棒。
けれど、彼女は何も指示しない。
ただ、目を閉じ、音に身を預けている。
合奏は、やがて一つの頂に達し、そして、すっと音が引いた。
静寂が戻る。月の光が、音楽室を満たしていく。
灯守は、白紙の楽譜を一枚、手に取った。
裏には、鉛筆でこう書かれていた。
「ここで一緒に、音になってくれてありがとう」
彼は旅帳にこう記す。
「音は、姿を持たない。けれど、人の心に残り続ける。
それは、誰かと奏でた“時間”の記憶なのだろう」
翌朝、音楽室はただの静かな空間に戻っていた。
けれど、風が吹くたび、どこからか木管の音が響いた。
(第56話・了)
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




