第五十五話 沈む家の灯り
その年、長く続いた渇水で、湖が干上がった。
底に現れたのは、歪んだ杭と苔むした瓦の残骸――
そして、一軒の家だった。
人々は言った。
「昔、この湖の底には村があった」
「治水のために沈められたんだ」
「夜になると、そこに“灯り”が点るらしいよ」
灯守が湖を訪れたのは、満月の夜だった。
風は止まり、干上がった泥に、乾いた音だけが響く。
湖の中央にぽつんと現れた家は、想像よりも整っていた。
傾いた屋根、ひび割れた壁、でも――明かりが、ついていた。
まるで、ついさっきまで誰かが暮らしていたような灯。
灯守は、干潟を渡り、その家へと向かった。
歩くたび、靴底が重く沈み、乾いた泥がひび割れる。
玄関の戸は半開きになっていた。
中には、ちゃぶ台と火鉢、座布団が三つ。
掛け軸には「清風在心」とあり、墨の色が未だに深い。
台所には洗った茶碗が伏せてあり、縁側には家族写真が飾られていた。
灯守は、その写真を見て息をのんだ。
写っていたのは、かつて別の町で会った老婆の若かりし姿だった。
彼女はこんな話をしていた。
「うちはね、湖の底に沈んだのよ。
村ごとね。でも、家族の灯りは消えてないの」
その言葉を思い出したとき――
家の奥から、人の気配がした。
ちゃぶ台の向こうに、男が座っていた。
顔ははっきりとは見えない。
ただ、静かに湯を注ぎ、湯気を眺めている。
やがて、女が現れ、男の隣に座る。
さらに、小さな女の子がちゃぶ台を囲む。
三人の影が、団らんを始めた。
言葉は聞こえない。ただ、笑顔がそこにあった。
灯守は、何も言えず、ただ見ていた。
それは、もう誰もいないはずの家族の“記憶”。
それでも、ここには灯りがあり、笑顔があり、ぬくもりがあった。
「家は、沈んでも残るんですね」
灯守がそう呟くと、女の影がふり返り、微笑んだ。
「灯りを絶やさなければ、どこにいても帰ってこられるもの」
その瞬間、ふっと風が吹き、障子が揺れた。
家の灯りが、ゆらりと揺れて、そして――消えた。
気づけば、家の形も、影も、すべて泥に沈みはじめていた。
灯守は、そっと家族写真を拾い上げ、懐にしまった。
そして、泥の上にひとつ、小さな灯籠を立てて火を灯す。
「沈む家の灯りは、もう見えなくても、
そこで過ごした時間は、確かに誰かを照らし続けている」
翌朝、湖には再び水が戻り始めていた。
灯籠だけが、水面に浮かびながら、静かに流れていった。
(第55話・了)




