第五十三話 鈴の音坂の影送り
その坂は、地元の人々から「鈴の音坂」と呼ばれていた。
なぜそう呼ばれるようになったのか、誰もはっきりとは知らない。
ただ、夜明け前や黄昏時、その坂を通ると“鈴の音”が聞こえるという。
風が鳴らすのか、鳥の羽音か、あるいは誰かが歩いているのか――
答えは、坂の上にしかない。
灯守がその坂を訪れたのは、春も終わる雨上がりの夕暮れだった。
細く、うねるように続く坂道。
路地裏に入り込みながら、ゆっくりと山腹へ向かって伸びている。
街灯はところどころしかなく、足元の苔が濡れて光っていた。
ぽつ、ぽつ――
坂の途中から、微かな鈴の音が響いた。
人の足音ではない、けれど確かに“誰かが歩いている”気配がある。
灯守がふと振り返ると、坂の下から行列がやってきていた。
人影だ。
だが、彼らの姿は透けていた。
老婆、子ども、青年、兵士、学生、農夫――
さまざまな時代の服装を纏った者たちが、静かに坂を登っていた。
誰一人、声を発さない。
ただ、皆、胸元に小さな鈴を下げている。
その列の端に、一人だけ背を向けて立つ少女がいた。
長い黒髪、白いセーラー服、膝までの靴下。
どこかで見たような姿――灯守が近づくと、彼女は振り返った。
「わたし、送ってもらってないんです」
少女の目には、薄く涙がにじんでいた。
「事故で亡くなったあと、
お母さんが泣き続けてて、ずっと“行かないで”って言ってくれてて……
わたし、行けなかったんです」
「でも、あの人たち、皆、送ってもらったから登っていけるんです。
ちゃんと、“ありがとう”とか“さよなら”とか、言ってもらったから……」
少女の首元には、鈴がなかった。
だから彼女は、列に加わることもできず、ここで立ち止まっていた。
灯守は懐から、古びた旅帳の切れ端を取り出した。
その紙片には、ある町で出会った母親が残したメッセージがあった。
「あなたがいない朝が、何度続いても。
お母さんは、いつまでも、あなたの背中を見送ってるよ」
少女は、それを読んで微笑んだ。
「ほんとに……お母さん?」
その瞬間、空から風が吹き抜け、どこからか微かな鈴の音がした。
少女の胸元に、そっと小さな鈴が現れた。
「行ってきます」と、彼女は小さくつぶやいた。
列に加わると、誰かがそっと手を握ってくれたようだった。
鈴の音が重なり、坂は音の行進で満たされた。
やがて列は、朝の光の中へと消えていった。
灯守は坂の途中に腰を下ろし、静かに旅帳を開いた。
「人は見送られるとき、音を遺す。
その音が、風のなかで鳴り続ける限り、忘れられることはない」
坂の名は、今も「鈴の音坂」と呼ばれている。
そして、ときおり、その道を誰かが静かに登っていくのだという。
(第53話・了)




