第五十二話 帰らずの喫茶店
それは、駅から離れた裏路地にあった。
煤けた看板に「ミルクホール 千代」と書かれたその喫茶店は、
昼間に通っても、常に閉まっている。
しかし、夜十時を過ぎた頃になると、ふと明かりが灯る。
煙草の香り、カップの音、かすかなジャズ――
それは、誰かの記憶の中にだけあるような、懐かしさに満ちた場所だった。
その店について語る者は少ない。
けれど、こう噂されていた。
「あの店に入った人間は、“帰りたい人”がいない限り、戻ってこない」
灯守がその店に辿り着いたのは、晩秋の霧の夜だった。
鍵はかかっていなかった。
扉を開けると、鈍いベルが鳴り、温かい空気が胸を撫でた。
中は昭和のまま、時間が止まっていた。
赤い合皮の椅子、天井の扇風機、新聞紙が敷かれた棚。
カウンターの奥では、背中の丸いマスターがコーヒーを淹れていた。
客は一人だけ、窓際に座る女性。
どちらも、こちらに顔を向けない。
灯守はカウンターに腰を下ろす。
マスターが、無言で一杯のブレンドを差し出した。
飲めば、胸の奥がじんとする。
懐かしさという味覚があるなら、これがそうだろう。
やがて、女性が立ち上がる。
その姿は、遠い過去に別れた誰かのようだった。
灯守が名を呼ぼうとすると、マスターが首を振った。
「“まだ帰れない”んだよ。あの人も、あんたも」
この店は、“帰れない者たち”の仮住まい。
会いたかった人に会えるが、**「本当に帰りたい」**と願わなければ、
そのまま留まり続けてしまう。
灯守は気づいた。
この場所に、自分自身も何かを探しに来ていた。
――あの夏、別れた人。
名前も、声も、もう朧げになってしまった。
けれど、そのぬくもりだけが、胸の奥に残っていた。
ふと、窓際の席に光が差した。
そこに、小さな女の子が座っていた。
花柄のワンピース、黒髪のおかっぱ。
彼女は微笑んで、言った。
「とうさん、さみしかった?」
灯守は、言葉を失った。
あの子は、ほんとうにいたのだろうか。
それとも、この場所が見せた幻だったのか。
けれど、彼は静かに答えた。
「うん。ずっと、ずっとさみしかった」
その言葉に応えるように、店の奥の扉が開いた。
そこは、もう何十年も開かれなかった“出口”だった。
マスターが言った。
「ようやく、“帰りたい”と思ったのなら、行っていい」
「ただし、一度出たら、ここにはもう戻れないよ」
灯守は立ち上がり、扉をくぐった。
背後で、ベルが小さく鳴った。
外に出ると、夜明けが近かった。
空が少しずつ白んでいく。
灯守は旅帳にこう記した。
「帰る場所とは、“誰かが待ってくれている場所”ではなく、
“自分が帰りたいと願う場所”なのかもしれない」
(第52話・了)




