第四十九話 忘れ名の帳
山の奥に、ひっそりと建つ古い神社がある。
石段は苔むし、鳥居は半ば崩れ、社の屋根には木の葉が積もっていた。
それでも、そこには不思議な帳面が置かれていた。
「忘れ名の帳」――
人から忘れられた名前たちだけが、そこに綴られていくという。
神社を訪れるのは、ごく稀だった。
それも、自分の“本当の名前”を思い出せなくなった者に限られていた。
帳には、誰にも覚えられていない名が静かに記されていた。
読むことはできても、声に出すとすぐに忘れてしまう。
灯守がその神社を訪れたのは、
名を名乗れぬ少女と出会ったからだった。
少女は、自分のことを**「なにもない」**と名乗った。
自分の名前も、家も、どこから来たのかさえも、何一つ思い出せない。
「わたしの名前って、誰か覚えてくれてたのかな。
それとも、はじめから――なかったの?」
彼女の目は、霧がかかったように曇っていた。
神社の帳面を開いたとき、灯守は一つの名に触れた。
それは、紙の上で微かに輝いていた。
そして、触れた指先から音がした。
「……ココ」
それは、少女の名だった。
幼い声で呼ばれた響きが、帳を通して灯守に届いた。
「ココ、こっちだよ」
「ココ、大丈夫。ちゃんといるからね」
「ココ、笑って。笑ってる顔がいちばん好きだから」
帳面は、失われた記憶の“音”だけを残していた。
誰かの呼ぶ声、笑い声、泣き声。
それらが名とともに綴られていた。
少女――ココの記憶が少しずつ戻り始めた。
小さな町、優しい母、手をつないだ兄。
だが、ある年の火事で家は焼け落ち、家族は行方不明になり、
彼女は身元不明のまま町を転々とすることになったのだった。
「名前は、居場所だったんだね」
「誰かに呼ばれるたび、そこに私がいた証になるんだね」
ココは、帳面の隣にある小石を手に取り、
鳥居の下に小さな石塔を積み上げた。
「わたし、もう“なにもない”じゃない。
ちゃんと、ここに、いたことがある」
灯守はそっと旅帳を開き、名のない頁に記す。
「ココ――一度失われても、声が呼ぶたびに名はよみがえる」
神社の奥にあった帳面は、その夜風に舞い、
白紙のまま空へ還っていった。
翌朝、神社は静かに消えていた。
ただ、石段の下に“ココ”という名前が彫られた小さな木札だけが残っていた。
(第49話・了)




