第四十八話 夜灯布の渡し守
それは地図にもない小川だった。
浅く、幅も狭い川。
だが夜になると、霧が立ち込め、向こう岸が見えなくなる。
そしてその川には、夜になるとだけ現れる渡し舟があるという。
舟を照らすのは一本の灯り。
白布で包まれた灯籠――「夜灯布」
その灯を掲げ、舟を操る老人がいる。
名も知らぬその老爺は、話すことなく、ただ舟を漕ぐ。
渡された者は、みな**「どこか遠い場所を見た」**と言い、
中には帰ってこなかった者もいる。
灯守がその川辺に立ったのは、晩秋の夜だった。
依頼を寄せたのは、亡き妻の声を夢に見続けているという男、久保井。
「妻が逝ってから三年、
夜になると“あの舟に乗ってくれ”という声がするんです」
灯守は夜の川を見つめた。
やがて、霧の向こうから灯りが浮かぶ。
布で包まれた、かすかな明かり。
舟は音もなく近づいてくる。
老爺は無言で、舟べりに手を伸ばした。
灯守は一歩、舟へと踏み出した。
霧が濃くなるとともに、時間の流れが奇妙に遅くなった。
そして、舟の上で、声がした。
「ここは、“戻れなかった想い”の岸です」
川の中程で、もう一つの舟が浮かんでいた。
そこに、白い服の女が座っていた。
目を閉じ、手を組み、風の音に耳を澄ましている。
「久保井さんの奥さんですか」と灯守が問うと、
女はかすかに頷いた。
「夫は、まだこちらを向いていない。
けれど私も、まだ彼に背を向けられないのです」
女は、死の間際に言えなかった言葉があったという。
「ありがとう、あなたに会えてよかった」
そのたったひとことを言えずに旅立ったため、
“舟の上”で、待ち続けていた。
灯守は、布の灯籠を女に渡した。
「これを持って。あなたの言葉は、必ず届きます」
女が灯りを手にすると、布に刺繍が浮かび上がった。
「わたしは いまも あなたの朝に祈っています」
その光は、霧を抜け、現世へと伸びた。
久保井の夢の中に、その布の灯りが差し込んだ。
目覚めた彼は、そっと枕元を見つめ、静かに涙を落としたという。
灯守が舟を降りたとき、老爺は初めて口を開いた。
「言葉とは、向こう岸から届くものではない。
灯りとなって、心の奥から灯るものじゃ」
その夜以降、霧が立っても舟は現れなくなった。
川辺には、小さな布灯籠だけが残されていた。
灯守はその灯りに祈るように、旅帳へ綴った。
「渡れぬ想いも、ひとつの灯を頼りに、
いつかは岸にたどり着くのだろう」
(第48話・了)
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




