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『灯影百譚──見えぬものと、ひとの縁』  作者: にせもん


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第三十六話 布語りの社

 言葉を持たぬ民がいた。

 いや、正確には“言葉を忘れることを選んだ民”だ。


 彼らは、声ではなく布に記憶を縫うことで、自分たちの想いを伝えた。


 その民が祀る社は、「布語りの社」と呼ばれ、山間の霧深い谷にひっそりと残っていた。


 言葉の代わりに針を打ち、沈黙のなかで過去を綴る、祈りの聖地。


 灯守ともりがそこを訪れたのは、秋の終わり、風が冷たくなった頃だった。


 社へ続く道は細く、苔に覆われ、木の根が道を遮っていた。


 ようやくたどり着いた先には、背の低い小さな社と、その前に佇む一人の老人がいた。


 老人の背中は大きく曲がり、手には針と布。

 そして、その顔には、深いしわと静かな笑み。


 「……あなたが、灯を守る人か」


 老人はかすれた声で、そう呟いた。


 「ここでは、もう誰も話さぬ。話してはならぬ。

 言葉は裂け目を生み、布だけが綻びを癒す」


 社のなかには、無数の反物が納められていた。

 そのひとつひとつに、糸で縫い込まれた文様――

 それは、“誰かの記憶”であった。


 笑顔、別れ、抱擁、嘆き、希望。


 糸の流れが語るものは、どれも静かで、言葉以上に深かった。


 灯守が、ある一本の布を手に取ると、老人はうなずいた。


 それは、最も古く、最も綻びの多い布だった。


 糸が解けかけ、模様は霞み、裂け目がいたるところに走っていた。


 「それは、わしの“娘の記憶”じゃ」


 老人は、布に指を添えながら語り始めた。


 「昔、わしは言葉に溺れ、怒りに呑まれ、娘を傷つけてしもうた。

 気づいたときには、言葉が毒にも刃にもなることを知った。

 だから――すべてを封じた。

 代わりに、縫うことにした。想いも、謝罪も、祈りも」


 その布は、娘がまだ幼かった頃の記憶から始まり、

 別れの日、謝れなかった夜、

 そして“最後に交わすはずだった手紙”の輪郭まで、すべてが縫われていた。


 灯守は、静かに布を手に取り、綻びに一針を添えた。


 裂けた部分に、彼が旅で得てきた“灯の祈り”を縫い込む。


 その一針は、老いた父の想いと、遠く離れた娘の魂を結ぶ“再縫の針”となった。


 縫い終えた布は、社の風にふわりと舞い、

 まるで一羽の鳥のように天へと昇っていった。


 その瞬間、社の上に一本の光が走り、夜の帳がやわらかくほどけた。


 「……これで、ようやく、言葉を言える」


 老人はそう言い、そっと口を開いた。


 そして、声にならぬ震える声で――


 **「ありがとう」**と、娘に向けて初めて発した。


 社の奥に飾られていた一枚の布が、風に揺れて微笑んだように見えた。


 そこには、かつて娘が縫った文字が、今も鮮やかに残っていた。


 「おとうさん、ごめんね」


(第36話・了)



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