第三十二話 影縫い
山裾の集落に、“影を縫う女”が住んでいるという噂があった。
彼女の名は“縫婆”。
その手に針と糸を持たせれば、人の心に巣くった“影”すらも縫い直すのだという。
「着物の綻びだけでなく、魂のほつれも繕う女」
「影が重くなったら、あの婆に縫ってもらえ」
そんな言葉が、山の麓でささやかれていた。
灯守が彼女の庵を訪ねたのは、薄曇りの昼下がりだった。
畑の隅にぽつんと建つ古い小屋。
煙突から細い煙が立ち、庇には吊るされた藍染の布が風に揺れている。
「……来たかえ」
縫婆は、すでに待っていたようだった。
背を丸め、細い目を細めて笑う老婆は、小さな木製の箱から針を取り出した。
「今夜は、縫う仕事があるんじゃろ?
あんたの袖から、じくじくと影が染み出しとる」
灯守は驚いた。
その日、彼のもとには一枚の古い反物が持ち込まれていた。
それは、とある娘が着ていたという着物の一部――そして、その娘は、行方知れずとなっていた。
「その娘はな、影を喰われとる。
自分の中の憎しみ、悔しさ、言えんかった言葉、忘れられん記憶……
そういったもんが、いつしか“影”になって、着物の裏地に棲みついた」
「そしてな、影は“主を縫い潰して”しまうんじゃ。
だから、その前に――わしが縫い直してやる」
縫婆は、反物を膝に広げると、音もなく針を刺した。
その仕草は、まるで風を縫うように静かだった。
ひと針ごとに、布が軋む音がする。
いや、それは布ではない。
娘の中でうごめく“影”が、声にならない呻きをあげていた。
「……こりゃあ、だいぶ深いのう。
影が、喉元まで縫い上がっとる」
縫婆の手元が止まった。
「最後の糸は、あんたに縫ってもらわにゃならん。
その娘にとって、“最後に伝えたかった言葉”をな」
灯守は目を閉じ、娘が残した短冊を思い出した。
そこに書かれていたのは、たった一言。
「ごめんなさい」
灯守は、その言葉を縫い針に込め、布の端に縫い付けた。
途端に、影がふっとやわらぎ、布が風のように軽くなった。
縫婆は頷き、針を仕舞った。
「影っちゅうのは、決して悪もんじゃない。
けどな、放っとけば、主を喰う。
だから時々、誰かが“縫い直して”やらにゃならん」
その夜、灯守が庵を離れるとき――
空には月が出ていた。
かつて“影”に沈んでいたはずの反物が、月明かりのなかで静かに揺れていた。
まるで娘が、そこに立っているかのように。
(第32話・了)




