第三十話 ふたつ折りの音色
町立文化会館のホールの隅に、誰にも使われなくなった古いピアノがある。
黒塗りのグランドピアノ。蓋は閉じられたまま、鍵もかけられている。
けれど、風の強い日――どこからともなく、かすかに音が鳴る。
ひとつ、ふたつ、三つ。
それは、曲になりきらない短い旋律。
けれど、それを聞いた人は皆、なぜか懐かしさと切なさに胸をつかまれるという。
灯守がホールを訪れたのは、雨の午後だった。
薄暗い舞台に、誰もいないはずなのに――かすかに音がした。
近づくと、ピアノの上に一通の手紙が置かれていた。
「弾いてくれて、ありがとう」
係員に話を聞くと、このピアノはかつて“ふたりの高校生”に使われていたという。
一人はピアノを弾く少女。もう一人は作曲をする少年。
放課後のホールで、ふたりだけの曲を作り続けた。
それは、発表のためでも、誰かに聞かせるためでもなく。
ただ、“ふたりにしか分からない音”を紡ぐため。
けれど、ある年の春。
少年は遠くの音楽大学へ進学し、少女は地元に残った。
再会を誓い合い、最後にひとつの曲を完成させた。
ふたりの名前を織り込んだ、内緒の旋律。
手紙は、少女がその曲に添えて送ったはずのものだった。
だが、少年は交通事故で亡くなり、返事は届かなかった。
「音だけは、どこかに残るって信じてたの」
舞台袖に、年老いた女性が立っていた。
髪に白を混じえ、目元に少女の面影を残していた。
「わたし、もう弾けないけど……このピアノ、まだ覚えてるの。
“ふたりの約束”を」
灯守は、ピアノの蓋を開いた。
すると、自然と鍵盤がひとつ、沈んだ。
誰の手も触れていないのに、旋律が流れた。
短く、優しい前奏。
それは、ふたりが最後に完成させた“ふたつ折り”の曲。
片方は届き、片方は届かなかった想い。
けれど、ここに重なり、ひとつになった。
演奏が終わったとき、女性の目には涙が浮かんでいた。
「ありがとう。これで、もう大丈夫……」
その手に抱かれていた楽譜が、ふわりと光りながら消えた。
その後、文化会館の夜に、もう音は鳴らなくなった。
だが、ピアノの蓋の内側に、小さな言葉が刻まれていた。
「今度こそ、ふたりで弾こうね」
(第30話・了)




