第二十八話 夜歩く風鈴売り
その男は、夜にしか現れない。
下駄の音を、からん、ころんと響かせて。
背中には、何十個もの風鈴が吊るされた木枠の棚。
硝子、陶器、金属、貝殻、竹製――どれもかすかな光を帯び、風もないのに、かすかに鳴っていた。
音だけが、先に通り過ぎる。
灯守がその男と出会ったのは、旧市街の外れ。
夜風のなか、古びた住宅地を歩いていたときだった。
通りの向こう、揺れる風鈴の音とともに、男の姿が見えた。
「……ひとつ、忘れた音があるんだろう」
風鈴売りは、そう言って灯守を見た。
目は細く、顔には深い皺が刻まれていた。
けれど、その声は澄んでいて、まるで“鈴”のようだった。
風鈴売りは、棚の中からひとつの風鈴を取り出した。
それは、どこか見覚えのある模様。
青い硝子に、白い金魚が一匹描かれている。
「これはね、“夏の音”を閉じ込めたものさ。
風が通るたびに、忘れかけた記憶が鳴る。
誰かの、言えなかったさよならとか、
届かなかったありがとうとか――そういうものが、音になって残るんだ」
灯守がその風鈴を受け取ると、不思議な光景が胸の裏にひらいた。
――縁側で、誰かが隣に座っていた。
足元には蚊取り線香、手には麦茶、隣には小さな女の子。
「来年も、いっしょに風鈴聞こうね」
その声は、もう思い出せないはずの、幼い日の妹の声だった。
灯守は静かに目を閉じ、もう一度だけ風鈴を揺らした。
ちりん――。
夏の記憶が、胸のなかで音を立てて消えていった。
目を開けたとき、風鈴売りの姿はすでになかった。
けれど、足元に風鈴がひとつ、そっと置かれていた。
短冊には、こう書かれていた。
「なくした音は、また来年、風にのる」
それ以来、灯守はその風鈴を、自室の窓辺に吊るしている。
夏の夜、ふと風が通り抜けたとき――
ちりん、と鳴るその音が、遠くの誰かを慰めているような気がしてならない。
(第28話・了)




