第一話 呼ぶ声
新しく書いてみました。飽き性なのでどのくらい続けられるか分からないですがよろしくお願いします。
古い町にある、小さな丘のふもと。その奥まった場所に、今はもう使われていない井戸がある。
柵もなく、囲いもされず、ただぽつねんと置き去りにされた石積みの井戸。
あまりに古く、まわりの子供たちにすら忘れられたその井戸は、春の花が咲きこぼれる頃になると、妙に気配を持ちはじめる。
誰かが中にいるような。
誰かが、呼んでいるような。
「……たすけて」
そう聞こえたのは、風の通り抜ける昼下がりだった。
灯守は、自転車を降り、耳を澄ました。鳥のさえずりの合間に、確かに小さな声があった。
誰かが、井戸の底から呼んでいる。
「ここに……いるの?」
灯守は井戸の縁へ近づいた。木々に囲まれた丘のふもとで、人の姿はない。周囲は静かだ。だが、声は続いている。
「たすけて……さむいの。くらいの……こわいよ」
声は、年端もいかぬ少女のようだった。
その声を、灯守は知っていた。あるいは、“似たような声”を、何度も聞いたことがある。
見えないものたちの――声だ。
灯守には、幼い頃から不思議な力があった。人には見えないもの。聞こえない音。触れられない存在。そういったものが、彼には“在る”とわかってしまう。
それが「視える」ということだった。
この井戸にも、何かが“いる”。
彼は井戸のまわりをぐるりと見回した。積もった枯葉。咲き始めたタンポポ。井戸の縁に、ひとつだけ――小さな赤いリボンが落ちていた。
少し色褪せ、ほころびのあるリボン。
灯守はそれを拾い上げる。
その瞬間、ふと空気が変わった。背筋にひやりとした感覚が走り、視界の端に、白い影が見えた気がした。
「……みえるの?」
声は、先ほどより近く、そしてはっきりと聞こえた。
「君のことが、ずっと聞こえてた。だから、来たんだ」
灯守はそう答え、リボンをそっと胸にしまった。
「君は、ここで待ってたの?」
「……うん」
声は震えていた。
「どれくらい?」
「わかんない。長いあいだ、まっくらで、こわくて……でも、おぼえてるの。だれかが、わたしを、さがしてくれてるって……」
灯守は井戸のふちに手をかけ、しゃがみこんだ。
「……うん。君は、ここにいた」
井戸の奥から、小さな光が舞い上がる。
それは少女の形をした、透きとおった“何か”だった。
白いワンピース。肩にかかる髪。あのリボンと同じ赤が、かすかに髪を飾っている。
「……あのね、わたし、なにかを、まってたの。すごくたいせつなことだったきがするのに、ぜんぶ、わすれちゃったの」
彼女の瞳に、涙のようなきらめきが宿る。
「でも、きっと、あなたにあえたら、だいじょうぶって、そんなきがしてたの」
灯守はそっと頷いた。
「……君のこと、忘れないよ」
「ほんと?」
「うん。君の声を、覚えてる。誰にも聞こえなかったかもしれないけど、俺には届いたから」
少女の形をした光は、ふわりと揺れ、灯守の手のひらに重なるようにして触れた。
冷たい。でも、あたたかい。
その矛盾が、彼女の“在りかた”そのものだった。
「ありがとう」
最後に、そう囁いて。
少女の姿は、光の粒となって春の空へと溶けていった。
井戸の底からは、もう声はしなかった。
数日後、町の図書館で、灯守はある古い記録を見つけた。
十五年前、この町で行方不明になった少女の話だった。
白い服。赤いリボン。
名前は、柊 小夜。
近所の子どもたちと遊んでいたときに忽然と姿を消し、結局見つからなかったという。
小夜は、ずっと井戸の底にいたのだ。
人の記憶からも、町の記録からも、ゆっくりと忘れ去られたまま。
けれど、声を上げ続けていた。
助けを、呼びつづけていた。
灯守は、その声に気づいた。ただ、それだけのことだ。
それだけで、誰かの“忘れられた想い”を、世界に連れ戻すことができた。
その夜、灯守の夢に、小夜が現れた。
白い花が咲き誇る草原のなかで、彼女は静かに微笑んでいた。
「もう、こわくないよ」
そう言って、ふわりと笑った。
春の夜風が、そっと灯守の部屋のカーテンを揺らした。
それは、誰かの声の名残だったのかもしれない。
(第1話・了)
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次回も、灯の下でお会いできますように――。