番外編 「書くことを忘れた男」
まだ、“灯守”と呼ばれるずっと前。
彼はただの、名もなき放浪者だった。
旅の理由も、過去の記憶も、おぼろげで、
ただあてもなく、道を辿るだけの日々。
話しかけてくれる人もいなければ、話しかける気力もない。
彼は、何かを忘れていた。
ある日、山奥の村で、ひとりの老婆と出会う。
「あなた、何を探しておいでかね?」
彼は答えられなかった。
探しているものも、失ったものも、言葉にできなかった。
老婆は、囲炉裏の傍らで、古いノートを手渡してきた。
それは、何十年も前に彼女が旅をしていたころの“記録帳”だった。
「覚えておくことは、祈ることと同じさね。
言葉にすれば、きっと、その“忘れた何か”も形になるよ」
放浪の途中、彼はそのノートの余白に、
初めて――小さな出来事を書きつけてみた。
たとえば、
- 雨宿りさせてもらった寺の鐘の音。
- 立ち枯れの木に止まっていた、赤い蜻蛉。
- 老犬にだけ見えていた、空の一点。
不思議なことが起こった。
書いた出来事が、少しずつ記憶に残るようになったのだ。
ただ通り過ぎていくだけだった風景に、
人の声や、想いの重なりが――残るようになった。
そしてある日、峠の地蔵堂で出会った、
“誰にも祈られなくなった神さま”に、彼は語った。
「あなたのこと、書いておきます」
「忘れません。誰かに、伝えます」
そのときからだった。
彼は“灯守”となった。
名もなき怪異や、誰の記憶にも残らない風景を、
一冊の“旅帳”に灯のように書き記し、
その言葉で――忘れられた世界に火を灯す者。
彼は、書くたびに少しだけ、忘れていた自分を取り戻していった。
その旅帳の冒頭には、こう記されている。
「この旅帳は、失くした声の記録。
名を持たぬものに、光をあてるために」
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次回も、灯の下でお会いできますように――。