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『灯影百譚──見えぬものと、ひとの縁』  作者: にせもん


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第十話 かたり石


 それは、山の中腹にある古びた集落のはずれ、小さな坂道の途中にぽつんと置かれていた。


 人の腰ほどの高さで、苔むした灰色の石。

 誰が置いたのかも、何のための石なのかも、記録には残っていない。


 けれど、地元では“かたり石”と呼ばれていた。


 夜になると、そこから「声」がするというのだ。


 灯守ともりは、山村にある古民家の調査を依頼されていた教職の知人に同行し、この地を訪れていた。


 彼がその石を見たのは、夕暮れ時。道の途中で、山影に包まれつつある風景のなかだった。


 近づくと、石の表面にどこか“やわらかさ”があった。まるで、何かが語りかけてくるような気配。


「……見えるのかい?」


 ふと、背後から声がした。


 振り返ると、細身の老女が立っていた。小柄で、髪は雪のように白く、杖をついている。


 「その石は、よう喋る。あんたにも、声が届いたんかね」


「……ええ、少しだけ。ささやくような声で」


「それなら、きっと聞けるよ。“誰かの思い出”を。今夜も、きっと来るから」


 老女はそう言って、小さく笑った。


 その夜、灯守は“かたり石”の前で待った。


 月のない夜。風はなく、虫の音すら静まった時間。


 やがて、石が――“語り始めた”。


 最初は低く、濡れた音のように。


 そして、次第に“ことば”になった。


 「……あの子は、小さな籠を持ってきてね。そこに、白い花を摘んで入れたんだ」


 「好きな人に、渡したくて。でも、恥ずかしくて、ずっと言えなかった」


 「だから、その花籠をこの石のそばに置いて、願いを託したのさ。“どうか、届けてください”って」


 灯守は、その声の“色”を感じた。


 それは誰かの記憶。

 語りかける者がすでにこの世にいなくても、思いだけがこの石に“封じられて”いる。


 次の朝、灯守は再び老女に出会った。


「……あれは、昔からある石ですか?」


「そうさね。うちの母の母の、もっと昔からあったらしい。あたしが子どもの頃は、“秘密を言うと願いが叶う”なんて話もあった」


 「でもね、ほんとうは違う。あれは、“残せなかった言葉”を、誰かが預けにくる場所だったんだよ」


 老女の目は遠くを見ていた。


「……実はね、あたしもひとつ、預けたことがある」


「若いころ、好きだった人がいたの。でも、その人は遠くへ行って、私は何も言えないまま嫁に出た」


 「その晩、泣きながら、石に“伝えて”ってお願いしたんだ。今でも、夜になると、あの人の名前を、石が呼ぶことがある」


 その夜、灯守はもう一度、石に触れた。


 そして、こんな言葉を耳にした。


 「……あの夜、君がくれたハンカチ、まだ持ってるよ。きっと言えなかったね。大丈夫、ちゃんと、わかってたよ」


 風が吹いた。


 それは、遠い昔の返事。

 もう交わせなかったはずの、やさしい返事だった。


 翌朝、老女の家を訪ねると、近隣の人が彼女の訃報を知らせていた。


 静かに眠るように、息を引き取ったという。


 そして、枕元には一枚のハンカチが置かれていた。


 白く、丁寧にたたまれたハンカチ。その端には、古びたイニシャルの刺繍があった。


 “かたり石”の前に、小さな花籠が添えられていた。


 灯守は、そっと手を合わせた。


 もう届かないと思われた言葉が、確かに誰かに届くこともあるのだと、彼は知った。


(第10話・了)

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