第九十九話 風鈴の音に眠るもの
その風鈴は、昼間は決して鳴らない。
どれだけ強い風が吹いても、どれだけ揺らしても、音を立てることはない。
けれど、夜の深い時刻――午前二時を過ぎるころ。
外に風がなくとも、不意に“ちりん”と鳴り始める。
それは、小さく、遠く、やさしい音。
けれどその音を耳にした者は、眠りに引き込まれるように、深く落ちていく。
そして――
まれに、そのまま目を覚まさなくなる者がいる。
「夢に引き込む風鈴」
そんな名で、町の古くから語られてきた民話のひとつ。
けれどそれは、ただの言い伝えではなかった。
その家は、町の坂の上にあった。
竹林の奥にひっそりと建つ、古民家。
風鈴はその軒先に、紺色の絹糸で吊るされていた。
音色は、高く澄んでいた。
まるで水面に投げた小石が、時の水紋を広げていくように――
灯守がその家を訪ねたのは、夏の夜。
夢見がちで湿った風が、坂を登っていた。
家の中には老婦人が一人。
白髪を結い上げ、静かな瞳を持つその人は、灯守を見てほほ笑んだ。
「来てくれると思っていましたよ」
「……どうして、わかったんですか?」
「昨夜、風鈴が鳴ったのです。誰かが迷ってしまう音でした。
だから、きっとあなたのような人が、来るだろうと思って」
灯守はふと気づいた。
部屋の一隅に、布団が敷かれている。
そこには、眠ったままの若い女性がいた。
まるで死んでいるかのように静かで、
けれど、胸は微かに上下している。夢の中に、深く沈んでいた。
「……娘です」
老婦人はぽつりと語った。
「もう十年になります。
二十歳を迎える年の、夏の夜。風鈴が鳴った日でした」
娘の名は美沙。
優しい子だった。
風を読むのが上手で、暑さの中でも小さく風を呼んで家に涼を運んだという。
だが、その年のある夜、風鈴がひときわ強く鳴った。
それが、はじまりだった。
その夜から、美沙は目を覚まさなくなった。
病ではなかった。医師も、原因を見つけられなかった。
「まるで、夢に誘われて、そのまま帰ってこないようで――」
老婦人は静かに目を伏せた。
「けれど、毎晩風鈴が鳴るたび、私は“娘の声”を聞くのです。
“お母さん、まだ帰れない”と。
“もう少し、この夢の続きを見せて”と」
灯守は夜を待った。
午前二時を過ぎ、空気が止まり、外の音がすべて引いていったころ――
“ちりん”。
風もないのに、風鈴が鳴った。
その音に、灯守はゆっくりと意識を持っていかれた。
目の前がぼやけ、世界が溶ける。
次の瞬間――
彼は夢の中にいた。
それは、夏の終わりの祭り。
夜店が並び、赤い提灯が揺れ、笑い声と鈴の音が重なっていた。
灯守は気づいた。
この夢は、“美沙の記憶”だった。
人混みのなかに、美沙がいた。
少女の姿のままで、浴衣を着て、金魚すくいの前に立っていた。
その表情は、幼い笑みを湛えていたが、
瞳だけは、深く、どこか疲れていた。
「ねえ、あなた、夢の人じゃないよね?」
美沙が声をかけてきた。
「あなたは、“現実のほう”から来た」
灯守は頷いた。
「君の母さんが、ずっと待ってる。もう、十年も」
美沙は静かに目を伏せた。
「わかってる。……でも、ここにいると、あの日のことを何度もやり直せるの。
誰も怒らず、誰も泣かず、全部がうまくいく。
現実で失ったものを、夢で繰り返せるの」
「でも、それはもう、“過去”じゃない。
君の母さんは、今を生きてる」
美沙は、目を潤ませていた。
「じゃあ、私も――“今”に帰ってもいいの?」
「帰ろう」
灯守が手を差し伸べると、風が吹いた。
風鈴の音が、遠くから響いた。
次に目を開いたとき、灯守は元の部屋に戻っていた。
布団の上で、美沙がそっと目を開いた。
老婦人が駆け寄り、泣きながら名を呼ぶ。
風鈴は、その夜を最後に、二度と鳴ることはなかった。
灯守は旅帳に記した。
「眠りとは、記憶を編み直す時間。
けれど、夢の中に住んでしまえば、現実は止まる。
風の音が帰る場所を告げたとき、人はようやく目を覚ます」
(第99話・了)
あとがき
風鈴の音には、なぜか郷愁があります。
それが心地よさなのか、過去への誘いなのか――
音の向こうに誰かの記憶があるとしたら、
それは戻るための「目覚まし」なのかもしれません。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




