第九十八話 紫陽花を食べた日
雨の日になると、あの家の紫陽花は、少しずつ減っていった。
咲き始めには七十輪ほどあったはずが、六月の終わりにはもう半分になり、
七月に入るころには、まるで“誰かが一輪ずつ摘んで食べてしまったように”、
跡形もなくなってしまう。
だが、不思議なことに花びらは散らず、
根元にも痕跡は残らない。
“まるで、誰にも知られず、この世からすうっと消えてしまったように”
町の者はそう言った。
その家は、町の外れにぽつんと建っていた。
古くから続く木造の平屋。
瓦は風に削られ、雨戸は色あせ、
けれど裏庭だけは、まるで時間を閉じ込めたように美しく保たれていた。
手入れされすぎず、荒れすぎず、
紫陽花だけが、静かに毎年咲いては消えていく。
灯守がその家を訪ねたのは、梅雨のただなか――。
白雨が降る午後、紫陽花の香りが濃く空気に溶け込む中だった。
その裏庭には、小さな影があった。
雨粒をすり抜けるように立っていたのは、
透明に近い、着物姿の子どもだった。
子どもは紫陽花にそっと手を伸ばし、
一輪を両手で包むと、そのまま口元に運んだ。
そして、咀嚼する仕草さえ見せずに、
ふ、と花は“影ごと”消えた。
そこには何の音も残らなかった。
ただ、次の雨粒が地面に触れる音だけが、時間の代わりをしていた。
灯守は声をかけずに、静かに庭に降りた。
その足音に、子どもは気づいたようだった。
ふり返った顔に、驚きも恐れもなかった。
ただ、どこか遠くを見るような、焦点の合わない瞳。
「それは、……おいしいの?」
問いかけると、子どもは少し笑って言った。
「味はしないよ。でも、必要なの」
「わたしが食べなきゃ、みんな、ここに残ったままだから」
「みんな?」
子どもは、紫陽花の奥に目をやった。
そこには、雨にぼやけるように、ぼんやりと複数の人影が立っていた。
老女、若い男、泣いている少女――
誰も声を発せず、ただそこに“存在だけ”を置いていた。
「この庭にはね、家族の記憶が沈んでるの。
悲しみとか、未練とか、言えなかった言葉とか。
だから咲くたびに、それを紫陽花が吸い取るの」
「でも、それが溜まりすぎると、花が枯れちゃう。
わたしはそれを、食べて消してるの」
灯守は問い返す。
「君は、その家族の子なの?」
子どもはしばらく黙っていた。
「たぶん、そう。だけど、名前は覚えてないの」
「でも、あの人たちは、わたしのことを“家族”って呼ぶから、
きっと、そうなんだと思う」
灯守は雨の音の中に、遠い記憶の断片が溶けていくのを感じた。
思い出されないことこそが、最も長くこの世に残る。
呼ばれず、記されず、埋もれたままの想い。
それを“花”に宿し、“食べる”ことで引き受けていた存在――。
「ねえ、おじさん」
「なんだい?」
「もしも、わたしが全部食べ終わったら、どうなると思う?」
灯守は答えを探すように黙ったあと、静かに言った。
「そのときは、君が“この庭の外”に出られるといいな」
子どもはふっと笑って、うなずいた。
「うん。わたしも、見てみたいの。
紫陽花の咲かない場所を。
あの人たちがいない、遠い場所を」
灯守は旅帳を開き、こう記した。
「花が咲く理由のすべてを、誰かは知らない。
けれど、その花が、誰かの記憶を抱えているとしたら――
静かに消えていくことこそが、祈りのかたちなのかもしれない」
(第98話・了)
あとがき
紫陽花は土の質で色を変えるといいます。
けれど、もしかすると――それは“記憶の味”を吸っているのかもしれません。
優しさだけでは消えないものを、
そっと引き受けてくれる誰かが、どこかにいるということ。
この話が、その証明であればと願います。
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次回も、灯の下でお会いできますように――。




