前日章「ひとつ目の灯を拾うまで」
夜の町は、まるで濡れた紙のように、光を吸い込んでいた。
雨上がりの石畳には、傘を差す人もいない。
ただひとり、フードを被った青年が、ゆっくりと歩いていた。
灯守と呼ばれるその青年は、名を棄て、過去を脱ぎ、今はただ“記録する者”として、旅をしている。
彼が記すのは、この世に“残らなかったもの”――
想いの灯。記憶の影。口にされなかった言葉。誰にも渡らなかった手紙。
そういった、消えかけたものを、ひとつひとつ拾っていく。
旅を始めた理由を、彼は語らない。
ただ、誰にも看取られなかったある言葉を胸に、今日もどこかの町を訪れる。
灯守が最初に出会ったのは、誰にも知られずに消えた、**“ひとつ目の灯”**だった。
その町には、名もない坂道があった。
坂の途中に、誰も使っていない赤い公衆電話がぽつんと立っていた。
ひと昔前に置かれたそれは、もう回線も切られ、鳴ることのない受話器を下げていた。
けれど、灯守がそこを通りかかったとき――電話が鳴った。
コール音は、まるで遠くから聞こえてくる夢のようだった。
彼は足を止め、ゆっくりと受話器を取った。
「……もしもし」
静寂が流れ、風の音に混じって、かすかな声がした。
「……おかえりなさい。……やっと、つながった」
それは、名も知らぬ誰かの“想いの残響”だった。
灯守は何も言わずに、その声を聞いた。
言葉のひとつひとつが、受話器越しに微かに震えていた。
やがて声は途切れ、再び無音が訪れる。
それは、ただそれだけの出来事だった。
でも、灯守はそこで確信したのだ。
この世には、まだ灯ることのない灯が、確かにある、と。
彼は旅帳を開いた。
その最初のページに、たった一行だけを記した。
《記録名:無音の受話器》
誰にも聞かれなかった“ただいま”と“おかえり”。
それは、受け取られることでようやく言葉になる。
聞く者がいる限り、声は、消えない。
旅の始まりにふさわしい、静かで、確かな灯だった。
それから灯守は、百の町を巡り、百の想いを記すことになる。
それは『灯影百譚』と呼ばれる記録集となり、読まれるたびに、また新しい灯を生んでいく。
彼が歩む先に、今日もまたひとつ、消えかけた灯がある――
――灯影百譚、ここに始まる。