帰り路
1
一帯に広がる水田のなかを黒く横切るローカル鉄道の、誰もいない無人駅から一歩を踏み出したところで、僕は気だるげに首元の汗を拭いた。
夏である。
普段は都会であくせくと働いている僕も、盆休みということで故郷の田舎へと帰省したわけだった。
黒ずんだ木造の駅舎は、記憶にあるよりもずっと古臭くなっている。
そのそばで枝葉を広げる大樹は変わらないように見えて、駅舎の屋根に干渉するようになったのだろうか、ところどころで太い枝が根元から切り落とされていた。
その、すっかり茶色くなった切り口を眺めていると、ようやく、しみじみとした郷愁のようなものを覚え始めた。
そうして駅前で佇んでいれば、蝉時雨のなか、どこからか小学生くらいの子供が数人現れた。彼らは自転車のベルを鳴らしながら、軽やかに目の前を走り去る。
丸くて白いヘルメットは僕の頃から変わっていない――そんな感想を浮かべつつ姦しい声を見送ると、足元に下ろしていた荷物を肩に掛けなおす。
「さて」と一声漏らし、僕は田舎道を歩き始めた。
実家までは多少の距離があり、しばらく歩くことになる。
車を出そうか、と電話口の老母は言っていたが……久しぶりの故郷である、むしろ歩きたい、と僕は見栄を張っていた。
気温自体は、このところに過ごしている場所と比べても、さほど変わらないはずだったが、アスファルトで舗装された地面が少ないからだろう、陽射しのほかにはあまり暑いとは感じなかった。
とくに水田を渡ってきた風は、ずいぶんと涼しくて気持ちがいい。
故郷の風は、こんな風だったか。――そんなことを考えてから、それにしても、あまりにも覚えていないなと自嘲する。
思えば帰郷というものを、僕は全然してこなかった。
地元にいたのは中学校までで、そこを卒業すると、遠方にある高等専門学校で学生寮に入寮した。高専卒業後はそのまま現在の会社に就職して、独身寮暮らし――以降、仕事の忙しさにかまけて碌に帰らなかった親不孝者である。
最後に帰省したのは、高専在学時の最終学年、つまり二十歳の頃であるから……優に十年もの間、僕は帰っていなかった。
もちろん、偶に観光がてら上京してきた両親とは顔を合わせていたし、携帯電話やSNSでは頻繁に連絡を取り合っていた――家族と折り合いが悪いとかではなく、単純に、遠方に帰ることが面倒だったのだ。
ただ、そんな薄情な僕であっても、まさか弟が婚約者を連れて帰るということになれば、実家に顔を出さないわけにはいかない。
興味もあった。
あの偏屈な弟がついに結婚を意識するとは、一体どのような女性なのだろう。SNSを通じて、弟の恋路に関しては多少の相談も受けていた身であるが、詳細なプロフィールは全くとして知らない。……この件に対する関心が、帰省の旅程を面倒に思う心を大きく上回り、僕の足を軽くしていた。
水田そばの駅から少し歩いたところで、帰路は古びた田舎の商店街へと入っていく。
何十年も前は違ったのだろうが、今やシャッターの降りた店ばかりで、人通りもほとんどない、薄暗く埃っぽいモールである。
僕の記憶では、まだ花屋や服飾店などの数店舗は開店していたはずだったが、どうにも見る限りでは、それらもとっくに店仕舞をしてしまったらしい。
さすがに十年も経っているのだ。
先程の駅舎の様子といい、なんだか様変わりをしているところが多いようである。――故郷ではあるけれど、こうして見渡していると、まるで旅先の、初めて訪れた場所を歩いているときのような気分にもなってくる。
つらつらと考えながら歩いていれば、ふと懐かしい記憶を思い出した。
そういえば――、僕は子供の頃に、たしかそのような気分を楽しむ遊びにハマっていた時期があった。
知らない場所ごっこ。
その遊びを、僕はそう呼んでいた。
2
知らない場所ごっこ、というのは幼い僕が編み出した一人遊びである。
家に親が不在で、外に遊びに行く予定もなく、身近に遊ぶ相手もいない。そんなときに、ひとりでひっそりと楽しんでいた秘密の遊びだった。
まあ、秘密――とはいっても、大した内容ではない。
十歳にもならない子供というのは、どんな些細なことでも自分だけの秘密、というものに大きな価値を見出すものだ。
知らない場所ごっこも、至極簡単な遊びである。
まずは目を瞑り、頭を空っぽにする。
そして、
「ここは知らない場所だ」
「ここは知らない場所だ」
「ここは知らない場所だ」
と、念じるのである。
より具体的に説明するならば、そう信じ込もうと努めるのである。「初めて訪れた友達の家」を想像すると、より分かり易いかもしれない。
日常という名の生活感があるが、けして馴染みはない、親しくも、どこか余所余所しい不思議な場所……それが「友達の家」である。
そのときの気持ちを、自主的につくりだす遊びなのだ。
そして実際、そうして念じてから目を開いたとき、僕の前には「知らない場所」が広がっていた。
先入観が消え去って、見慣れていたはずの景色が、途端に新鮮に映るのである。
それが、堪らなく面白かった。
こうして久しぶりの帰郷である現在、懐かしくも余所余所しい町を歩いていると、その頃の思い出が次々と蘇ってくる。
最初は、自宅のなかでばかり遊んでいた。
暇だ、暇だ、やることがない、と階段や玄関に座り込んで、目を瞑る。念じて、開く。すれば、壁紙の真っ白な色や模様、意外な場所にある窓、親の趣味のインテリア、家具、さらにそれらの表面の、僕がもっと幼い頃につけたのだろう傷や落書き、……。そういった、普段の生活で全く気に留めていなかった、知らないものがたくさん目につくのである。
まさしく「初めて訪れた友達の家」を観察するような心持と目つきで、家中を練り歩いたものだった。
自分が慣れ親しんでいたはずの家のなかが、この遊びを通した瞬間に未知の場所へと変貌する、このギャップは何とも言えぬ不思議な感覚である。
正直なところ、幼い僕はこの感覚が癖になった。
この遊びを思いついた九歳から、おそらく十歳になる頃合いまでは、僕は暇さえあれば「知らない場所ごっこ」をしていたように思う。
なにしろ小学校でも行っていた。
休憩時間や昼休み、ふと時間が空いた際に、ひとり目を瞑る。念じて、開く。すれば、やはりそこは「知らない場所」で、「知らない人間たち」なのである。
そうして親しい友人の顔を、改めてじろじろ眺めれば、思いも寄らない、まったく新しい印象を覚えたりするのだった。
(そういえば……この「遊び」をしなくなったのは、どうしてだろうか)
思い返せば思い返すほど、本当に気がつけば「遊ぶ」ほどに、僕はこの遊びを気に入っていたのだとわかる。
それがいつからか、……おそらく十歳になった頃合いで、僕はぴたりとこの「遊び」をやめてしまっていた。
何故だろう――。
単純に飽きたのかとも考えるが、どうも違う気がした。
しばらく悩みながら、より深く思い出に潜ってゆく。
そのうちに、はたと思い至って足を止めた。
「そうだ、帰り道で試したんだった」
3
おそらく、十歳になったばかりの頃だろうか。
その日は友人の誰とも都合があわず、学校からの帰り道で僕はひとりだった。
丸く白いヘルメットをかぶり、黒いランドセルを背負い、田舎ながらに体操服のままで下校しながら、僕は「暇だな」と思った。
そしてごく自然に、知らない場所ごっこをしようと考えた。
目を瞑る。
黒い視界。
そのまま、いつも通りに、
「ここは知らない場所だ」
「ここは知らない場所だ」
「ここは知らない場所だ」
と念じた。
それまで、自宅や学校など、いわゆる閉鎖空間でしかこの遊びを試したことがなかった僕は、はたして上手くいくだろうかとも考えていた。
やがて恐る恐るに目を開けて、
――そこは知らない町だった。
すごい! と、僕は興奮する。
古臭い商店街、錆の浮いた自動販売機、折れ曲がったままの道路標識、……。よくよく考えれば見覚えのあるものばかりのはずが、ぱっと見るだけでは初めて確認するような気分である。
まるで冒険をするような新鮮な気持ちで、僕は浮かれて、あちこちを歩き回った。
くるくると目を忙しくしながら、色んな横道に入ったり、路地を歩いたり、畦道を進んだりした。
これまで十年間も住んできたにも関わらず、まったく知らない景色ばかりがあった。
今にも朽ちそうな、お化け屋敷みたいな廃屋があるかと思えば、新築で、派手な色合いだけどお洒落な家がある。
商店街の奥には裏路地を通らなければたどり着けない、奇妙な空き地があったし、田圃と畑のそばには叢に隠れるようにして、小さなトンネルや祠があった。
それは時間を忘れるほどに、楽しかった。
しかし、やがて空の端が茜色に染まり出せば、さすがに僕も「そろそろ帰ろう」と思い始める。
高揚した冒険心の、心地よい余熱を感じながら、さて帰路につこうとして――そのときになって、僕は困惑した。
右を見る。
左を見る。
水田があり、畑があり、住宅地がある。
都会でもなければ、片田舎でもない、中途半端な、どこにでもあるような地方の町である。
けれど、僕は自分がどこにいるのか、まったくわからなかった。
――帰り道がわからないことに、初めて気がついたのである。
ありえなかった。
知らない場所ごっこは、――自己暗示のような要素があるとはいえ――、あくまでごっこ遊びなのだ。
現実的には狭い田舎町、実際には慣れ親しんだ故郷である。
そのはずなのに、まさかこの歳で迷子になるだなんてことは……まったく想定していなかった。
僕は不安で焦る心のままに、住宅地のなかを走った。
目に留まる表札は、どれも知らない名前ばかりである。
それでも、どこかで見覚えのある家があれば――自分の家でなくとも、例えば友人だとか、ご近所だとか、そういう家があれば、自然と帰り道がわかるはずだと思った。
ところが、いくら走っても……空がとうとう暗くなり、街灯が道を照らし出す頃になっても、まったく見覚えのある場所に出なかったのである。
ついには暗い夜道を、僕は半泣きで歩いていた。
心細かった。
何故こんなことになったのだろう、と思った。
気温も低くなり肌寒く、足も痛いし、空腹感もひどい。
そうして、とぼとぼと惰性で歩いているところに、
「――こんなところで何してんの!」
突然に肩を掴まれて、怒鳴られた。
それは母親だった。
本格的に涙腺の決壊する僕を、彼女はあやしながら家まで連れ帰った。
そこには暖かい部屋があり、温かい食事があった。
父がいて、弟がいた。
僕は彼らにからかわれながら食事を済ませ、風呂に入り、就寝した。……
思い出してみれば、そのときである。
枕を涙で濡らし、布団にくるまりながら――。
幼い僕は、もう二度と、絶対に、知らない場所ごっこをしない――と、たしかにそう決めたのであった。
4
細部がおぼろげながらも、ようやく遠い記憶を思い出してみると、なんともスリリングな経験である。
いまになって考えるならば、つまり当時の僕は「知らない場所ごっこ」のやり過ぎによって、本当に自分の居場所がわからなくなるほど、強く自己暗示に掛かってしまったということだろうか。
子供が思いついただけの、ただの暇つぶしだったはずの一人遊びが、よくもまあ、危険な代物へと変わったものである。
そう思いながら、僕は周囲の町並みを見渡していた。
遠い日の夜、泣きながらさまよっていた際の経験を思い出してから、なんだか、そわそわと居心地が悪かった。
どうにも落ち着かない。
あるいは過去の失敗談として、今更に恥ずかしがっているのだろうか――?
頭を振りつつ、どうしたものか、と視線を巡らせる。
過去を掘り下げながらも歩み続けた足は、あの日と同じく住宅地へと差し掛かっていた。
古くからの農家や、彼らの離農地に建てられた移住者の家、そして不動産会社が建て売りしている区画と、様々な性質の軒が雑多に入り混じって並んでいる。
より一層に余所余所しく覚え始めたそれらを眺めていると、いつしか僕の脳内は再び「知らない場所ごっこ」の記憶へと遡っていた。
初めてこの遊びを思いついた頃、僕は家にひとりだった。
いつも、ひとりで、ひっそりと――。
(あれ?)
妙な引っ掛かりを覚えて、再び足が止まる。
――何故、あの頃の僕は家にひとりきりだったのだろうか。
僕には弟がいる。
二つ歳下の弟だ。
僕が九歳の時、彼は七歳で、だから親が家にいないなら、家には僕と弟の二人がいるはずなのだ。
兄弟仲は良いほうで、弟の遊び相手だって彼が小学校も中学年になるまでは、もっぱらに僕が務めていた。
それまでは小学校への行き帰りだって、僕は彼と一緒に手を繋いで――。
瞬間、雷で打たれたような感覚。
――何故、あの日の帰り道に、僕はひとりだったのだろう。
奇妙な違和感は、気がつけば嫌な胸騒ぎへと変じていた。
僕は道端で突っ立ったまま、必死に記憶のなかを探り始める。
弟との思い出をひとつひとつ、丁寧に確認していき……そうして、すぅっと背中が冷えた。
――弟との思い出は、すべて僕が十歳になって以降のものばかりだった。
十歳以前、僕には弟と過ごした記憶がない。
「……まさか」
僕は笑おうとした。
けれど口元は震えていて、うまく笑えなかった。
いやいや、まさか――だ。
そんな、馬鹿なことがあるわけがない。
僕が二歳の頃には、弟は生まれているのだ。
すっかりと覚えていないだなんて、普通はありえない。
これはいったい、どうしたことだろう――?
そこまで考えたところで、ふと、実家の壁紙を思う。
記憶のなかで、幼い僕はたしかに壁紙を白いと思っていた。けれど、実際に現在の家は――勘違いでなければ、木目調ではなかったか。
同時に僕には、やはり実家が壁紙を貼り換えたような、そんな記憶もない――。
考えれば考えるほどに、焦燥感だけが募ってゆく。
足元が、ぐらぐらと崩れていくような感覚――まるで、僕だけがこの世界に異物であるような、そんな妄想に駆られてゆく。
これでは、まるで……まるで十歳を境にして、僕の周囲が、世界丸ごとに、がらりと変化したかのようではないか?
さらに、
(――あの日)
帰り道がわからなくなった、あの日の――夜の涙。
無事に帰宅できたはずなのに、何故、僕は布団のなか、ひとりで泣いていたのだろう。
もしかして、あれは、決してヘンな遊びをもうしない、なぞという誓いではなく、……
(もう二度と、絶対に、知らない場所ごっこはしませんから……だから神様、どうか、僕をもとの場所に戻してください――)
――あるいは、そのような祈りではなかったのか。
いつの間にか脳裏に閃いた、あまりに怖ろしい予感に僕は震えていた。
あの日に、知らない世界に迷い込んでしまった僕は、――
「知らない場所」と思い込むことで遊んでいたはずの僕は、――
いつからか、逆に「知っている場所」だと思い込もうとしていたのではないか――。
「まさか、まさか、……ありえない」
夏の暑さではない、別種の汗で僕の額は濡れ切っていた。
すべて妄想に決まっている。
この陽射しで、きっと頭がゆだっているだけなのだ。
あの家族が、本来とは別人だなんてことはありえない――。
そうして実際に顔を思い浮かべようとして……愕然とする。
家族の顔が、わからなかった。
弟がいる。母親がいる。父親がいる。
しかし彼らの顔を誰ひとり、僕は思い浮かべることができなかった。
僕はずっと、彼らと会話しているようで、彼らの顔を直視せずに生きてきている。
もしや僕は、自分の家族を――「父親」という、「母親」という、「弟」という、ただその役割をもってしか認識できていないのではないか。
いや、まさか……それこそ、そんな馬鹿な話があるわけがない。
いくら僕が薄情者であるにしても、限度がある。
「思い出せ、思い出せ……」
頭を抱えて蹲る僕を、遠巻きに、不審げに眺める視線がいくつもある。
構うものかと、必死に熱のある額を叩いていれば、やがて記憶の底から、ぼんやりと像を結ぶものがあった。
おさげの髪の、皺の無い笑顔――若い女性。
母親だ、と直感して安堵する。
これは若い頃の母親だ。僕がまだ幼い日の記憶だ。
ほら……きちんと思い出せた、僕はちゃんと正気の、ごく普通の人間なのだ。
顔を上げた僕は、周囲の視線から逃げるように駆け出した。
はやく帰らなければいけない。
はやく帰って、確かめなければいけない。
(――何を?)
脳裏に浮かぶ言葉を、必死に聞こえないふりをして、僕は一目散に走ってゆく。
年甲斐もなく全力疾走を続ければ、さすがに狭い住宅地である、すぐに実家の前までたどり着く。
息も絶え絶えなまま、取りつくようにインターフォンへと指を伸ばしたところで、
「あら、おかえりなさい」
声があった。
この二十年間、ずっと親しんできた「母親」の声だ。
僕は顔を上げて――。
そして、まさしく血の気が引いたことを自覚した。
いま、目の前で嬉しそうに微笑む老婆。
はたして、この人は一体誰なのだろう――。
遠い記憶にあったはずの母親とは似ても似つかない顔つきの女性……十歳以降の僕がずっと「母親」として接してきた女性は、佇むばかりの僕の腕を優しげに引っ張った。
「ほら、疲れたでしょ。入って、入って」
家の中へと誘い込まれながら、僕の首だけは弾かれるようにして後ろを振り返っていた。
どこにでもあるような住宅地。
それを改めて眺めてみれば、嗚呼、やはり、そうなのだ――と腑に落ちる。
見慣れていたつもりだった……けれどこれは、この場所は、まったく知らないどこかの町だ。
だからきっと、いつかの僕は遠方の学生寮に入りたがったのだ。
心のどこかで、いつも帰郷することが嫌だったのだ。
ようやく理解する――二十年前から、僕はずっと迷子のままなのだ。
いつの間にか頭の奥底で、遠いあの日に夜道を孤独に歩いていたときの、心細げな、恐怖に震えるばかりの、幼い泣き声が響いている。
本当の帰り道は、未だわからない。
(了)