晩夏の残骸は、藍に浮かぶ
『薬医門に連なる岩垣は、点々と苔を張り付かせていた。宵闇に鈍く融和する屋根瓦、開かれた木扉。その二つはいかにも荘厳さを醸し出していた。都会では絶対に見ることのない古民家が、在郷の此処には存在していた。
祖父母の邸宅に訪れるのは、果たして幾年ぶりだろうか──最後の記憶では、恐らく、四年前だったろう。来る十二歳の、晩夏の頃だった。脳裏を蠱惑的に揺蕩っている夏陽炎は、どうやら記憶に、朧気な、晴らそうにも晴れない靄を掛けてしまっている。
ここに来て早々、八畳一間の祖父の部屋に通された。というのも、祖父が近所の面々を呼び連ねて宴会を開いているらしい──そこに僕が偶然にも訪れたものだから、子供は別部屋に居なさいと告げられたわけである。
「今から用意しといたご飯持ってくるから、少し待ってなね」
そう言い残して、部屋から消えていった。襖の閉まる軽快な、小気味良い音が、八畳間の風情を張り詰めさせた。
八畳間には床の間と座布団と文机だけが鎮座している。その上には万年筆と一組を成しているインク瓶、そして埃をかぶったような古書が、無造作に置かれていた。不思議と鼻を突くような辛気臭い感覚は、抱かなかった。
──この手記はその万年筆で書き留めている。尖鋭なペン先が紙に掠れてゆく。藍のインクが紙に滲んでゆく。初めてだから書きにくいのだ、左利きだからインクの滲みが手に移ってしまうのだ──そんな弁解をしている自分が少し、面白く思えた。字の滲んだ手記を横目に、インクを継ぎ足した。《万年筆記念日》と小さく付け加える。
壁一面に取り付けられた窓硝子越しに、あの宵闇を覗いてみる。陽炎のように霞んだ紺青と、茜や紫金の残影は、既にこの暮夜に呑まれてしまっていた。微かな端白星と藍に浮かぶ輝石だけが、白昼の昊天の残骸に思えた。』