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夏に焦がれていた

『都会の喧騒には、ほとほと飽き果てた。コンクリートに毒された自然の表皮、切り貼りされたフィルムの如く突発的に訪れては去りゆく四季の一片、ましてや雑然とした無秩序に身を置いていては、心に余裕が持てない。


──だから、存在しないあの夏に、焦がれているのだ。


縁無しの紺青の空、ただ立ち昇るだけの入道雲、アスファルトに揺らぐ夏陽炎、降り注ぐような蝉時雨、苔蒸した水辺に揺蕩う蛍──その悠然さに。


今年の夏は、少し背伸びをしてみようと思った。自分の焦がれている夏の断片に、少しでも触れられるように。

……存在しない朧気な夏を、少しでも鮮明に描くために。

だから都会から背伸びをして、喧騒とは最も程遠い場所に身を置くために、ゆるりと手を伸ばすのだ。』



そこまで書き終えたところで、僕は動かしていた手を止めた。大学ノートの一頁の半分あたりまでが活字で綴られていて、そこから下は真っ白なキャンパスになっている。まだ何にも毒されていない、清廉な。


……如何にも、僕自身のエゴを剥き出しにしたような文章だ、と思った。ありったけの思いの丈を吐露した結果が、この一頁の半分を埋めているのだ。

その隅に落ちた枝葉の影が、軽風に靡いて揺れている。


──紙に擦れていたシャーペンの芯の音が、裾が奏でていた衣擦れの音が、ピタリと止んだ。けれど、僕の頭の中では、まだその余韻が残っている。書き終えた最後の一文字の結びの音ですらも、何となく覚えていた。


心地よい風が髪の合間を通り抜け、耳元で小さく鳴く。如何にも、と言うような、夏を感じることの可能な、()()()風だった。

……僕が望んでいた夏の欠片は、ここにある。それがたとえ全てに合致する万能のピースではなくても、ただ『存在しない夏』の断片に触れられれば──。


ノートから不意に顔を上げる。それまで縮こまっていた影がふっと移動して、眼前に広がる棚田を見つめた。熱を帯びた陽光が瞳に直射する。思わず瞼を顰めると、放射状の光が彩られて脳裏に焼き付いた。


仄かに香る紙と、斜陽に焼けたアスファルトと、棚田を彩る早稲の──その他にもいっぺんに夏を凝縮したような匂いが、鼻腔の奥深くを刺激する。

都会では絶対に味わえないこの感覚に触れられただけで、僕はもう、ここに居ることの存在意義の数割を満たせたと思う。



「……あ」



ふと視線を足元へやる。塗装された道路と隔てられた、砂利混じりの畔の脇に、曼珠沙華がたった一輪だけ咲いていた。

真っ直ぐに伸びた茎の先端からは、紅の花弁が妖艶にその腕を開いている。誰かを誘い込んでいるような──そんな、佇まいで。

散形花序の花弁が夏風に揺らぐ様は、少しだけ、哀愁を漂わせていた。



「……んー」



シャーペンを握る指に力を込める。



『僕は夢想の夏に焦がれているけれど、暮れにふらりと訪れては消えゆくあの曼珠沙華だけは、少しだけ、嫌いだ──』



惰性という名の感情に流されたまま、脳内にとめどなく溢れてゆく活字を、そのままノートに走らせてゆく。

理想の夏の風景を背後に、胸が引き裂かれそうな感情を、抑えながら。

そして結びの一言に、想起した過去を添えるのだ。



『──曼珠沙華は、あの子が好きな花だから。』

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