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名探偵の忘れもの  作者: おけや
ホテル女子高生殺害事件
5/6

恥じることなく

 リビングに行くと、母親が少し驚いた顔をして顔を上げた。


「珍しい。どうしたのこんな時間に」


 時刻は朝の6時。いつも起きるのがもう三十分ほど遅い息子の早起きに、母親は驚いているようだった。


「目が覚めて。お父さんは?」

「まだ寝てるんじゃない? 昨日は帰りが遅かったから。奈緒はもう学校」

「こんな朝早くにねぇ」


 茶碗にご飯をよそいながらご苦労なことだ、と思う。中学の部活を適当にこなし、高校では帰宅部の身としては、どうしてそんなに頑張れるのか理解できない。

 奈緒というのは妹のことだ。中学一年生で、バスケ部に所属している。特に接点はない。向こうからも話しかけてこないし、こっちからも話しかけない。


 父親が欠伸混じりにやって来たのはその時だった。


「あぁ〜あ……。おはよう母さん。あれ? なんだ、樹早いな」

「目が覚めて」


 母親に言ったのと一語一句変わらない言葉を言って食卓に着く。


「あぁ、そういえば明日ショッピングモール行こうと思うんだけど、樹も行こうぜ」


 茶碗にご飯をよそいながら父親が言った。

 明日、土曜日のことである。

 ちょうどいい、と思った。昨日忘れたことがあったのだ。

 わかった、と返事をして朝ごはんを食べ始める。ご飯と湯煎のさば味噌という質素なものだった。


「いってきまーす」


 ご飯を食べて歯を磨いて顔を洗って服を着替えて、呟くように言うと早めに家を出た。


 気持ちのいい朝、とは口が裂けても言えなかった。まだ早い時間だというのに、夏という季節は本領を発揮してジメジメとしたまとわりつく様な朝を醸し出している。


 西島凪紗が死亡したというニュースはまだ流れていない。とは言っても油断はできなかった。前の時間軸で警察が西島凪紗の遺体を発見したのは午前7時頃──つまり今だ。それから初動捜査があり、報道局が事件の情報を入手し、情報を纏めてから報道──そんな流れだと思うからどうしてもすぐに分かるとという訳にはいかない。

 だから、最も早く確実な方法は学校に行って西島凪紗の生存を確認することだ。

 正直な話、あれで本当に事件を防げるのかどうかはわからない。俺のしたことは、所詮たかだか数言彼女と言葉を交わした程度のことだ。だからもしも失敗した場合、春宮は再び時間を巻き戻すのだろう。


 住宅街を通って学校が近づく。途中で犬を散歩をしているおばさんとすれ違った。どういう訳か会釈をして来たから、会釈で返す。

 正門を通って下駄箱で上履きに履き替える。一年の教室までの長い階段を上っていく。


 ガラガラガラ、と扉を開けると、誰かの人影があった。まだ7時半にもなっていないのに、と一瞬驚いた。


「おう、おはよう。早いな」

「おはようございます」


 そこにいたのは体育教師兼生活指導の奥村先生だった。

 奥村先生は俺が教室に入るとさっさと教室から出ていった。こんな時間に何をやっていたか気になるが、今は考えなかった。

 席について暇だったからカバンから文庫本を出して読み出した。集中出来ずにろくに内容など入ってこなかったが、読むフリだけはした。


 五分に一度くらいスマホでニュースを確認しつつ中身のない読書を続けると、時間が過ぎ、やがて教室に人が入り始める。

 ザワザワ、ガヤガヤ。そんな雑音を聞きながら、誰かが西島凪紗のことを噂していないかチェックする。


「そんな〜、違うよ〜」


 聞き覚えがあるんだかないんだか分からない、いやに明るい声が聞こえて顔を上げると、春宮が友人たちと教室に入ってきたところだった。彼女はこちらのことは一瞥もしなかった。

 教室に入ったあとも、楽しそうに笑顔を浮かべながら友人たちと歓談している。そんな楽しそうな笑顔は俺と話している時には決して見せなかった表情だ。


 まぁ、そんなもんだよな、と思う。彼女にとって俺は一人の容疑者でしかない。それを知りつつそれ以上を望むなんてことは愚かでしかない。


 朝のホームルームが始まった。担任の沼田先生が出欠を取る。それでも西島凪紗は姿を現さなかった。


 ……本当に事件が防げていればいいのだが。

 西島凪紗はホテルで殺された。前の時間軸のニュースでは具体的な名前は出てこなかったが、ホテルという単語が出てくるのであれば、それはそういうことなのだろう。

 人間、誰しも迷いや葛藤をする。これから自分がやることが間違っていると感じれば、そこに不安がある。そしてそんな時に、何か自分が変われるような可能性が目の前に降ってきたら、人は案外それを掴んでしまうものだ。自分がもうどうしようもない絶望の中にいる時以外は。

 俺がやったのは、そういうことだ。西島凪紗に可能性を少し見せた。もしかしたら学校で話し相手が出来るかもしれないという可能性だ。ほんの僅かな可能性だったが、もしも西島凪紗が本当は人と話したい人間なら、その可能性にかけてくることもある。

 今回の事件の場合、おそらく原因は男女関係のもつれか金銭トラブルだろう。その結果逆上した男に西島凪紗は殺された。それを起こさせないようにするには西島凪紗をホテルに行かせなければいい話だっ……た。


 急に頭の中で引っかかるものを感じた。本当にそうなのか? 本当に事件はそのようだったのか? そもそも俺は事件については詳しく知っているわけじゃない。ニュースで見ただけだ。それなのにあれこれと断定するのは間違っていたんじゃないか?


「…………」


 冷や汗が噴き出してきた。心臓が早鐘を打っていた。疑問は更なる疑問を産み、今までの思考を塗りつぶしていく。


 がたっ、と勢いよく立ち上がる。教壇で話していた沼田先生が驚いて話を中断する。

 突然の奇行に走った生徒をクラス中の生徒たちが見つめる。春宮もその中の一人だった。彼女は信じられない、という顔でこちらを見ていた。その視線に思わず逃げたくなる。


 言え。言え。ここまでやってしまったなら勇気をだして言ってしまえ!


「お腹痛いんで早退します! 欠席でもいいんで!」


 それだけ言うとカバンを持って帰路に着いた。先生が何かを言っているが、構わずに教室から出た。


奥菜(オキナ)君待って!」


 走らない程度の早足で下駄箱まで行くと後ろから走って追ってきた春宮アリスに呼び止められた。息を切らしているところを見ると、全力疾走でここまで来たらしい。


「どうして来た?」

奥菜(オキナ)君が行っちゃうからじゃない。どうしたのよ急に……っ」

「歩きながら話す。靴を履け」


 靴に履き替え、正門に早足で向かう。


「それで、いったいどうしたっていうのよ」

「事件はまだ終わってない。俺たちは根本から事件を間違って見てたんだ」


 意味がわからない、というように春宮は眉を曲げた。


「俺もお前も、この殺人事件は西島凪紗が男に殺された事件だと思ってた。その認識でいいな?」

「ええ。だってそうじゃない。殺されたのは凪紗なんだし」

「それが間違ってたんだ。犯人は西島凪紗なんだよ。西島凪紗は殺されたけど、殺されたわけじゃなかったんだ」

「……どういうこと?」


 言い方が悪かった。確かに今のじゃ伝わらないだろう。この事件を的確に表す言葉を俺は知っている。


「──無理心中、つまりは自殺だ」


 無理心中。相手の同意を得ないまま、相手を殺し、自分も死ぬことだ。


「無理心中?」

「ああ。西島凪紗は男を殺して自分も死ぬつもりだったんだ。それが失敗して逆に殺された、それがこの事件だったんだ」

「なによそれ。証拠でもあるの?」

「絶対的なものは無い。でもそう考えられる。西島凪紗のカバンの中には包丁が入ってたし、死ぬ動機もあった」

「動機ってなによ」

「身内の不幸だ。お前は近くに行ってないからわからなかったと思うけど、西島凪紗の服からは線香や焼香の香りがした。普通に仏壇に手を合わせるぐらいじゃあそこまでの匂いはうつらない。きっと葬式に出て匂いがうつったんだ。反応からしてたぶん死んだのは祖母だ」

「でも、それだけじゃ凪紗が死のうとしてたなんてわからないじゃない」

「ああ。それだけじゃない。昨日西島凪紗はスマホの写真を整理していた」

「それがなんだっていうの?」

「スマホの中の写真の整理なんて普通はやらない。死を前にして色々と整理してたんだ。自分に不都合なものが残らないように」

「でも……」


 春宮は何かまだ不満がありそうに呟く。


「決定的な証拠がないことはわかってる。でもじゃなきゃ西島のカバンの中に包丁があった理由が思いつかない。普通、これからホテルで男と会う人間が包丁なんて持っていくと思うか?」

「……わかった。とりあえずその可能性で考える。それで、これからどうするの?」

「まずはホテルだ。事件が起こってるならもう警察が集まってるはずだ」

「じゃあ急がないと。走れる?」


 彼女の質問に辺りを見ながらいや、と答えた。

 正門から出るとそこはもう大通りだ。俺は手を挙げた。

 キィッ、という音をたてて目の前にタクシーが止まる。


「こっちの方が速い」


 年代物の黒いコンフォートの後部座席に乗り込むと、年老いた運転手が「どこまででしょうか?」と聞いてきたからホテルの名前を言った。「え?」と運転手が素っ頓狂な声を上げる。しかも横から脇腹に肘打ちをくらった。痛い。


「お客さん、高校生ですよね……?」

「はい」

「その場所って……」

「ああ、よく勘違いされるんですけど、家がその近くなんですよ。変な場所のせいで、ナビに住所を入れても出てこないんです。お願いできます?」


 運転手は納得していない様子だったが、はい、と答えると車を発進させた。

 横を見ると春宮アリスが耳まで真っ赤になった顔を両手で隠していた。


「どうして場所がわかったのよ……」

「事件が起きたのは市内だ。市内にホテルは一つしかない」

「どうして知ってるのよ……」

「さっきスマホで調べた」

「……ばか」


 小声だったから会話が運転手に聞こえていたのかはわからない。イチャついてると思われてもおかしくなかった。


「はい、到着でーす……」


 十分もしないうちに車はホテルに着いた。車が停車してドアが開かれる。春宮がカバンから財布を出そうとするのを止めた。


「あ、駐車場までお願いできますか?」

「はい?」


 運転手の驚いた声が聞こえた。今ごろ、あれ? コイツ家が近いからここまでって頼んだんだよね? どうして駐車場まで行くの? とでも考えているのだろう。

 しかし運転手はもう突っ込まないと心に決めているようで、暗い声で「はい」と返事をして車を駐車場に向けた。

 春宮はもう赤い顔を隠すこともせず、むず痒そうな顔で俯いていた。膝の上にピンと伸ばされた腕の先はギュッと握られていた。恥ずかしいだろうが、もうすぐ終わるだろうから我慢して欲しい。


「あの……駐車場に入りましたけど……どこに止めれば……」


 運転手が気まずそうに言いながらルームミラー越しにこちらの表情を確認してくる。

 ドアから駐車場の中をざっと見渡すが、警察車両が駐車されている様子はなかった。どうやら無理心中事件は防げていたようだ。


「いえ。ちょっと他の場所に行ってもらってもいいですか?」

「はい?」

「お好み焼き屋の西島屋まで行ってもらえます?」

「ごめんなさい。場所がわからないんですけど」

「なら住所を言いますね。住所は埼玉県──」


 運転手はナビに住所を入れ、ふてぶてしく「はい」と返事をした。そろそろ面倒な客だと思われていることだろう。


「西島屋ってもしかして」

「たぶん西島凪紗の家の店だ」

「どうしてわかったの? 奥菜(オキナ)君って凪紗と話したことなんてあったの?」

「いや、昨日もらったクーポン券だ。そこに店の名前と住所が書いてあった」

「でもどうして? もう事件は防げたんじゃないの?」

「今確定的に防げたのはホテルでの無理心中事件だ。西島凪紗の目的はあくまで自殺だ。心中はあくまでその一つの手段でしかない。飛び降り、入水、練炭──他に方法はいくらでもある」


 やがて車は片側一車線の狭い道路の路肩に止まった。


「少し待っててもらうことはできますか?」

「悪いけどお客さん、ここ駐車禁止なんで」


 質問に運転手は悪びれた顔を装って言った。ハッキリとは言わないものの、お前らみたいな客は面倒だから、ということだろう。つい数秒前にコンビニを通り過ぎたことに俺は気づいている。


「じゃあ、ありがとうございました」


 安くないお金を払ってタクシーから降りる。西島屋は目の前だった。

 昭和中期頃に建てられたような古いとは言っても情緒溢れない外観の店先には暖簾がかかっている。どうやらもう営業中のようだ。


「じゃ、頼んだ」

「え? なにを?」

「俺は人見知りだ。事情を説明して、西島凪紗が家を出たかどうかだけ確認してくれ」

「仕方ないわね……」


 不服ながらも受け入れてくれた春宮が暖簾を手で押しのけて店の中に入っていく。

 その後に続いて俺も店に入る。


 いらっしゃいませー、と出てきたのは若い女の人だった。西島凪紗ほどではないが、背も低い。髪を金髪に染めているがてっぺんがプリンになっている。なんだか全体的に見て高校生から大学生くらいな感じだ。西島凪紗のお姉さんだろうか?


「あら? その格好はもしかして凪紗のお友達の方ですか?」

「ええ。私たち凪紗のクラスメイトで。お母さん覚えてます? 私のこと」


 ん? お母さん? お姉さんじゃないの?


「あれ? もしかしてアリスちゃん? 懐かしいわ〜。店に入ってきたときからもしかしたらって思ってたけど、こんなに大人びちゃって〜。で、後ろのあなたは? 凪紗の新しいお友達?」

「あ、お姉さ、いえ。西島凪紗さんのクラスメイトの奥菜(オキナ)樹です」


 会釈をすると、西島凪紗の母親もそれに返して、それから春宮の方へ向き直った。

 しかし俺はそんなことよりもこの人が西島凪紗の母親だということに驚愕していた。この人何歳で西島凪紗のことを産んだんだ? ていうか今何歳なんだ? まさか妖怪か?


「それで? 今日はどうしたの?」

「あの、凪紗って家にいますか?」

「いま? ううん。とっくに学校に向かったけど」

「それってどれくらい前ですか?」

「うーん、もう一時間くらい前かなぁ」


 春宮が息を飲んだ。


「あ、えっと……そうですか……」

「あの、あの子のことお願いできませんか? 最近あの子様子がおかしくて……」

「なにかあったんですか?」


 俺は何も知らない風を装って尋ねた。


「母が──あの子の祖母が自殺したんです」


 軽く会話をしたあと、いたたまれない気持ちになりながら店を出た。

 春宮を見ると、彼女は暗い顔をしていた。


「春宮?」

「凪紗とっくに家を出たって……。どうしよう……。もう時間を戻すしか……」

「まだ結論を出すには早い。まだ心当たりがある。そこに行ってみよう。大丈夫、ここからそう遠く離れてない」


 そう言うと、春宮の返事も聞かずに歩き出した。彼女もすぐに着いてくるだろうと思った。なぜならきっと彼女の方が俺よりも西島凪紗を助けたいと願っているはずだからだ。


「もう無理よ!」


 しかし聞こえてきたのは怒鳴り声だった。予期していなかったことに足が止まる。

 振り向いて、言葉に窮した。


「もう……っ、無理よ……っ!」


──春宮アリスは泣いていた。


         ◇


『凪紗を殺したの、あなたでしょ?』

『ああ。そうだよ』


 今朝の奥菜(オキナ)樹の言葉が、何度も脳に反芻する。

 熱病にでもかかったように、頭はぼうっとしていた。それでも春宮アリスがしっかりとした足取りを保っていられたのは、彼女の気力の強さのおかげだったのだろう。


 奥菜(オキナ)樹は、西島凪紗殺人の犯人。それが春宮アリスの出した結論だった。

 彼には西島凪紗を殺す動機があった。時間もあった。そして不自然な行動もあった。彼はあまりにも怪しかった。

 警察が彼には 辿り着くのも時間の問題だろう。しかし、それだとしても、春宮アリスは心のどこかで彼が否定するのことを望んでいた。

 しかし、彼はあっさりと認めた。

 それが悲しく、悔しく、そして憎らしかった。

 気がつけば、彼の頬を叩いていた。


『西島が……?』


 1月、凪紗が行方不明になったとわかったとき、彼は事態をあまり理解できていなそうな顔をしていた。

 4月になって凪紗の遺体が発見されたときも彼は怒っている風を装っていた。

 その全ては欺くための嘘だった。


 奥菜(オキナ)樹のことを信じていた。

 彼は人を殺めるような人間ではなかった。そう信じていたからこそ、裏切られた。


「…………」


 境内までの長い階段を上がると、柔らかい風が吹いた。

 春らしく、温かくて包み込むような風。そんな風が吹く神社の境内には、たくさんの桜が植えられている。

 今のこの町とはまったく似合わない光景に、彼女は嫌になった。

 境内には人っ子一人いなかった。おそらく物騒な事件が起こったあとで、誰も神社に来る気になれないのだろう、と考える。


 嫌なことがあったとき、よくこの神社に来た。

 春は桜が綺麗な神社だったが、周りが小さな道路ばかりのせいか、人は多くなく、いろんなものから逃げたいときには、ここに数時間もいれば心が楽になった。

 今日は、家に帰りたくなかったからここに来た。

 家は、今はあまり綺麗ではない。窓ガラスは割れているし、壁に血の跡もある。床に落ちたガラス食器の破片は長らくそのままだ。

 妹は、最近金属バットで物を壊すようになった。喧嘩になると、それで人を叩いた。そんな家に帰りたくなかった。


 参道をゆっくりと歩く。

 一歩歩く度に思い出が蘇った。


 楽しい思い出、嫌な思い出、ドキドキした思い出、ワクワクした思い出、呆れた思い出、幸せな思い出。しかしそのどれを思い出しても辛くなった。


 やがて春宮アリスは神社本殿の裏に腰掛けた。

 薄暗く、どこか汚れた雰囲気のするそこは、不思議と落ち着く場所だった。小学生の頃はなんとも思わなかったが、この歳になると、罰当たりな気がして少し罪悪感がした。それでも、どうでもよかった。

 冷たく、僅かに湿気を含んだ清涼な風にあたっても、気分は少しも晴れなかった。


「……?」


 スマホが震えて、春宮はスカートのポケットから取り出した。


『警察来て奥菜(オキナ)探してるんだけど知ってる人いる?』


 それはクラスのグループに書き込まれた言葉だった。

 クラスのグループなんて言っても、クラスメイトの何人かは入っていない。奥菜(オキナ)樹もその一人だ。


 もう、時間の問題だ。


 全てがバレることになるだろう。週刊誌は面白おかしく囃し立てることになるだろう。それは本来守られるべきはずの被害者のことさえ。

 校内では既に噂になっている。西島凪紗はろくでもない女だと。西島凪紗は知らない大人の男とよく会っている、高校生にとってその噂は想像を掻き立てるには十分だったのだろう。本当かどうかすらわからないその噂を、今では誰もが信じている。


 どこからおかしくなってしまったんだろう、と考える。どこがおかしかったからこんな未来になってしまったんだろう、と考える。

 或いは、彼ならそれをピタリと言い当てることができるのかもしれない。でもそんなの無理だった。どこからおかしくなったのか、全然わからない。


 全部をやり直したい、と思った。


 その願いがどれほど都合のいいものかわからないほど春宮は愚かではなかった。

 しかし、もしもやり直せたら、そう思わずにはいられなかった。


 7月。奥菜(オキナ)樹と初めて話したあの日。七夕の日。あの日に戻れば何とかなりそうな気がした。


 戻りたい、と強く願った。

 戻って事件を防ぎたい。凪紗に死んでほしくない。奥菜(オキナ)樹に人を殺してほしくない。

 何より、あの頃は楽しかった。


 でも願っても願っても、どんなに強く願っても、時間だけが過ぎた。


 帰ろう、とそう思った。

 立ち上がり、スカートについた泥を払う。完璧には落ちなかったが、どうでもいいと思った。

 お賽銭箱に五円だけ入れてから帰路に着く。気分は少しは落ち着いていた。


 石段の目の前まで来たとき、後ろから、ジャリっと玉砂利を踏みしめる音が聞こえて、不意に誰かに押された。

 体勢を保とうとしたが、気がついた時にはもう神社の長い石段を転がり落ちていた。

 視界が揺れ、石段が目の前に迫るのを見て彼女は目を閉じた。

 転がり、いろんな場所をぶつけ、何が何だかわからなかった。自分がどのような体勢で転がっているのか、どこをぶつけたのか、何もわかなかった。

 一つだけわかったのは、それで時間が戻ったということだった。


         ◇


 春宮アリスは、その綺麗な瞳から大粒の涙をぼろぼろ零して泣いていた。

 それを俺は見ていた。


「どうせもう無理よ……だって、凪紗は一時間も前に家を出たんでしょ……? それなら、もう……」


 その可能性は高いだろう。親に怪しまれないように西島凪紗は普段通りの時間に家を出たのだろう。一時間も経っていれば、もう死んでいてもおかしくない。


「諦めるのか?」

「……時間を戻した方が合理的だって言ってるの。このまま生きているか……いいえ、見つかるかどうかすらわからない凪紗を探すより、そっちの方が早いわ」


 一語一語、絞り出すように彼女は言った。それは彼女自身、言うのに覚悟がいる言葉だったのかもしれない。

 思わず息を飲んだ。それは言ってはならない言葉だった。人間としての尊厳を無視するかのような発言だった。

 そして同時に思い知った。春宮アリスはそこまで追い詰められていたのだ。

 俺の中にある春宮アリスのイメージでは、彼女はそんなことは絶対に言わなかった。たった三ヶ月、教室で彼女のことをたまに眺めるくらいしかしていなかったが、それでもわかるほどに彼女は良い子だったのだ。

 しかし、未来から来た春宮アリスはイメージと少し違っていた。以前の天真爛漫といった子供っぽさが消えてしまっていた。それでも、それは一年という彼女と俺との時間の違いを考えれば、そういう変化もあるのかもしれないと、そう思った。


 だが、それは違ったんだ。

 彼女はきっと、未来で徹底的に追い込まれていたのだ。心がズタボロになるほど、擦り切れるほど、もう立ち上がれないほど。それでも勇気を振り絞り、最悪の未来を回避するためこの過去へとやって来たのだ。

 それを俺はまるで理解していなかった。


「お前が未来でどんな光景を見たのかはわからない。もしかしたら俺が想像する百倍や千倍は酷い未来を見てきたのかもしれない」


 彼女の見てきた未来。俺が西島凪紗を殺害したと自白した未来。そこで何があったのかはわからない。もしかしたら、そこにあったのは絶望だったのかもしれない。


「でも、西島凪紗がまだ生きている可能性はまだある。その1パーセントの確率を否定して、面倒だから時間を戻せばいいという考え方は、もうただの作業と何も変わらない。人の生き死にがかかったことを作業化するってことは、ひどく冒涜的で、そのラインを超えることは、人間が人間らしくあることを辞めることだ」


 思うに、人間が人間らしくあるために必要なことは、ある一点において合理性を否定するということだ。例えそれをすることによってどれほど便利な世界になろうと、どれほど利益があろうと、決して超えてはいけず、立ち止まり、踏みとどまる。それこそが人間が人間らしく生きるということだ。


「でも、お前が辛い気持ちも分かる。だから一緒に行こう」

「………………」


 春宮アリスは何も言わなかった。それどころか、動きもしなかった。

 少し迷ってから、だらんとさがった彼女の手首を掴んだ。細い手首はすべすべとしていて触って不思議と心地よかった。

 その腕を引っ張って歩いても、彼女は抵抗することなく歩いた。

 例え彼女がNo、行かない、あなたと一緒なんてイヤ、と言っても無理やり引っ張っていくつもりだった。春宮アリスのことを、まだ落ちぶれさせたくはなかったからだ。


「もしこれで西島凪紗が死んでたら、全部俺のせいにしていい。お前に無駄足踏ませたのも、友達が死んだところを見せつけたのも、全部俺だ」


 そんな言葉を口にしたのは何のためか、自分でもわからない。

 夏のうだるような暑さの中、春宮アリスと歩いた。セミの鳴き声がうるさいほど聞こえる。ここは埼玉県だっていうのに、九州のアブラゼミの鳴き声ばかりが聞こえていた。

 彼女の手首を掴む手は汗で濡れていた。彼女が嫌がらないかと心配になったりもした。それでも歩いた。歩みを止める訳にはいかなかった。


「着いたぞ」


 やがてそれが見えてきた。

 それは一級河川にかかるそこそこの大きさの橋だった。そこが目的地だった。


「やっぱり……誰もいないじゃない……」

「いや、たぶん下だ」


 そう言って彼女の手を引いたまま土手を下っていく。夏の太陽の栄養をたっぷりと備えて伸び伸びと生えた雑草たちを踏みながら橋の下が見える場所まで行った。


 橋の下は雑草が伸び放題となっている岸と比べたら綺麗と言えた。地面がコンクリートで舗装されているからだ。隅っこの方に放置された段ボールやらレジャーシートは、きっとここに前住んでいたホームレスが残していったものだろう。橋と地面との距離は小さく、そのせいで暗くて嫌なイメージを与えているが、それが却って好都合な人間もいる。ホームレスとか、自殺者とか。


「──っ!」


 春宮が息を飲んだのがわかった。


──そこに西島凪紗がいた。


 西島凪紗は橋の下のコンクリートの上で、縄を手に持って体育座りをしていた。


「行くぞ」


 警察に通報してもよかった。そうすれば俺は何もしなくていい。でもそうして大事になるのは嫌だった。その判断はもしかしたら間違っているのかもしれない。


「西島」


 声をかけると西島凪紗の肩はビクリと震えた。まるで犯罪者が警官に声をかけられたかのような反応だった。慌てて彼女は立ち上がって、縄を後ろに隠した。

 これから俺が対峙するのは、ある意味殺人犯だ。失われた時間軸では人を殺そうとした人間だ。


「お、奥菜(オキナ)君にアリスちゃん……? な、なんですか?」

「西島のことを探しに来た。やっぱり暑いから日陰がいいよな。そこ涼しいだろ?」


 重い雰囲気にならないよう、明るい印象を与えるように努めた。


「こんな暑いなら、日向も日陰も変わりありませんよ。それより、学校はどうしたんですか?」

「早退してきた。ちょうどいいからこれから三人でお前んちのお好み焼きでも食べに行かないか? 半額券もあるし。金欠な俺の奢りだ」

「……お腹、減ってません」


 あらそう。

 しかし困った。どうやって西島を説得すればいいのかわからない。それに西島凪紗をこの場から連れ出す口実がもう思いつかない。

 そもそもこういうことには不慣れだ。慣れたところで得意にもならないだろう。

 困っていると、今まで俺の後ろにいた春宮が前に出た。


「ごめん、凪紗」


 そして彼女は開口一番に謝った。


「どうして謝るんですか?」

「最近、話せてなかったから。私本当は嬉しかった。入学式の日にクラスの発表を見て、凪紗と同じクラスだったから。でも教室に入ったらなんだか色んな人に話しかけられちゃって、気づいたらその人たちとずっといるようになってて。その人たちも悪い人じゃないんだけど、凪紗とはたぶん合わない人だって思ったから、あの人たちといるときは話しかけられなくて。だから、ごめんなさい」


 おそらく彼女の言葉の重みは俺が思っているよりもあるのだろう。俺からすれば二人の空白の時間は三ヶ月だが、未来からやって来た春宮からすればそこには一年の間もあり、それでいて未来では西島凪紗は死んだのだ。きっと計り知れないほど様々な後悔が彼女の中にはあるのだろう。


「帰ろう。凪紗。帰って一回話し合お」


 問いかけるような春宮の声に西島凪紗の瞳が変わった。それはなんというか、力が抜けたようだった。変に張っていた意地を捨てたかのようだった。

 俺はホッとした。これならもう大丈夫だ。事件は解決でいいだろう。


「──おうおう。ガキがこんな時間に人の家で何やってんだよ」


 それは、誰も予期していなかったことだった。

 その声は俺のものでも、西島凪紗のものでも、もちろん春宮アリスのものでもなかった。


「人様の家だ。とっととどけやコラ」


 そこにいたのは身なりの汚い一人の男だった。ここに住んでいるホームレスだとはすぐにわかった。彼の口調が乱暴なのは、何も彼がホームレスだからでなく、酒に酔っているからだということは、彼の頬を見てわかった。


 彼は現状に気づくことなく、すたすたと俺の前に出た。


「ったくどいつもこいつも人の家荒らしやがって。こないだだって変なババアが死んだせいでポリ公に一回追い出されるし……。おうチビ。さっさとしないとあのババアに呪い殺されるぞ。そこはババアが首吊って死んだところだからな!」


 そして易々と彼はラインを超えてしまった。

 西島凪紗の瞳に憎しみと屈辱が宿るのがわかった。馬鹿ッ! とホームレスに叫んだが遅かった。


「こ、来ないでっ!」


 西島凪紗が叫んで向けてきたのは包丁だった。まだ一度も使われた形跡のないものだ。

 切っ先をカタカタと震わせながら、西島凪紗は荒い息と涙を流す混乱した瞳をこちらに向ける。明らかに彼女はパニックになっていた。こうなるともう何をしてくるかわからない。

 ホームレスが目を丸くする。


「な、なんだよそれ!」

「いやっ! いやっ! いやいやいやっ! もういやです!」


 涙を辺りに振りまきながら、包丁を意味もなく振り回しながら彼女は喚いた。


「こんなことをしてなんになる。やめよう」

「こ、来ないでください!」

「近づいてない。落ち着こう」

「な、なんなんだよ! この頭イカれ女! 死んじまえ!」


 せっかく宥めようとするのに男が横から口出しをする。しかし何か出来る訳でもない。男も男で興奮している。何か言っても止まらない。


「そうですよ! 私はイカれ女ですよ! 頭がおかしいんです! だから友達もできないんです!」

「やめて凪紗……凪紗はおかしくないてないよ」

「みんなみんな嘘つきです! アリスちゃんも、奥菜(オキナ)君も、──お婆ちゃんもッ!」


 それは絶叫に近かった。それほどまでに感情が篭った一言だった。


「私には……お婆ちゃんしかいなかったのに。友達ができなくて、お母さんも仕事が忙しくてっ。そんな私にはお婆ちゃんしかいなかったのに……」


 西島凪紗と彼女の祖母がどのような関係だったのかはわからない。しかしきっと西島凪紗にとって祖母は心の拠り所だったのだろう。


「お婆ちゃん、言ったんですよ? 命を大切にしなさいって。たった一つの命なんだからって……それなのにっ! それなのになんでお婆ちゃんが死ぬんですかっ? 自殺するんですかっ? こんな寂しいところで死んだんですかっ? わからない……わかりませんよ……」


 それが西島凪紗がここで死のうとした理由か。彼女の祖母がここで自殺をしたからこの場所を選んだ。それは、死んだ後に祖母と会いたかったからなのかもしれない。


「生きるのがこんなに辛いなら……生まれたくなんてありませんでした……」


 彼女は呟くように言い、刃を自分に向けた。

 凪紗っ! と春宮アリスが叫ぶ。

 俺は地面を蹴って駆けようとした。しかしうまく体が動かなかった。駆け寄ることによって西島凪紗が死んでしまうような気がして怖かった。


 からん、と包丁が地面に落ちた。


 目にいっぱいの涙をため込み、嗚咽をあげる西島凪紗の手はだらりと下がっている。しかし彼女の体にはどこも傷がなかった。


──西島凪紗は、死ねなかったのだ。


 彼女はは膝から崩れ落ち、それからわんわんと泣く。まるで小学生のように、みっともなく、遠慮なく、今まで溜め込んできた感情を吐き出し続ける。


 それに春宮アリスが駆け寄って彼女の体を抱きしめる。そこは俺が近づいていい場所ではなかった。


「すみません」

「へ?」


 俺はホームレスに話しかける。彼は目の前の状況にまだついてこられていなかったようだ。

 財布から五千円札を取り出して、続く言葉を述べる。


「お騒がせしてすみませんでした。これ、少ないですけどお気持ちです」

「あ、ああ。まぁ、謝るのが当たり前だよな」

「はい。それから一つお願いなんですけど、今日のこと警察には言わないでもらえませんか?」

「……なんでぇ。そんなの俺の勝手だ」

「どうか。どうかそこをお願いします」

「……仕方ねえな。俺も酷いこと言って悪かったよ」

「ありがとうございます」


 深々とお辞儀をしてホームレスのもとから離れた。それから誰にも聞こえないようにため息をつく。

 ヤバい。もう財布の中に五百円ぐらいしか残ってない。来月までどう生きていこう。

 とりあえず当分は昼飯抜きだな、と思いつつ、別のことも考える。

 彼女はいつか、苦しむことになる。

 誰かの前で死のうとしたということに。そのくせして、死ぬ勇気がなかったことに。世間では何かをやり遂げるのが善だというような風潮がある。彼女は真面目だから、それと自身の行いを比べて、いつか恥じてしまうだろう。


 春宮が西島凪紗から一度離れた。すると、西島凪紗の表情が曇った気がした。

 春宮が離れたのが何のためかはわからないが、彼女がいない隙に言っておきたい言葉があった。

 俺は西島の前に立つ。独り言だと思って聞いて欲しい、と最初に述べたのは、たぶんこういうことを言うのが恥ずかしいからだ。だから、もし全然的外れだとしても、独り言ということで流してほしい。


「恥ずかしがったり、後ろめたさを感じる必要はない」


 西島は静かに聞いていた。


「上げた拳を振り下ろす寸前で止めるのは簡単なことじゃない。それを止めるには、振り下ろす以上の力が必要だ。だからお前は凄いことをしたんだ。むしろ胸を張って生きていいと思う」


 最後、彼女は俺にも聞こえるかわからないような小さい声で、はい、と言った。


 それからどういう訳か西島を家まで送って行って、そしたら何故だか西島のお母さんに呼び止められて半ば強引にお好み焼きを食べさせられた。最初の方は泣いていた西島も最後は少しずつ笑っていたから、良かったことなんだと思う。


 代金? もちろんしっかり取られたとも。半額券がなければ皿洗いをしなければならないところだった。かくして俺の財布の残金は百円をきった。

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