烏
寮に隣接する石上稲荷大社。
その境内にある祓殿には、烏帽子を被り、浅黄色の袴に白の狩衣を着た後ろ姿があった。
昂だ。瞼を閉じ、精神を集中させて大幣を振っている。
「禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと……」
昂は途中で祓詞を止めて振り返った。視線を外へと移し、捉えたのは夜空に浮かぶ満月。すると昂は、思い立ったように表へと駆け出した。
そして大鳥居の前まで来たところで昂の血相が変わる。睡蓮が居たからだ。
「なんでこんな時間にっ。危ないじゃないか!」
睡蓮の元へ一目散に駆ける昂だが、近くまで来ると顔全体を赤面させた。
「う。胸騒ぎがすると思って来てみたら……全く」
思わず足を止めて後ずさってしまった昂だが、赤くなった顔を手のひらで覆い隠し、きょとんとする睡蓮に歩み寄る。
「昂くん。まだ起きていらしたのですね。どうしたのですか? そんな格好をして」
「……それはこっちの台詞だって」
昂は消えてしまいそうな声で言った。
それもそのはず、身体のラインを拾う生地の薄いショートパンツと素肌にキャミソール。睡蓮は着の身着のままだった。
睡蓮もここまで走ってきたらしい。艶めかしさに拍車を掛けるように、肩と一緒に胸元が上下して動く。昂は理性で色情を制そうとするのもやっとのようで、睡蓮に対しての業を後ろを向くことによって必死で逃していた。
「いやいや俺はこんな神聖な格好で何を考えている……」
「昂くんどうかしましたか?」
「べ、別に、なんでもないっ。た、たださ廊下でのことがあったろ? なんか睡蓮の様子が気になったから俺、あれから着替えてお前のことを想いながら加持祈祷していたんだ」
「そうだったのですね。ありがとうございます」
「ああいいから屈むなっ。ちょっと待ってろ」
昂はそう言うと着ていた狩衣を脱ぎ、睡蓮に羽織らせた。自分は着物に袴を合わせた作務衣姿になる。
「不格好なのは許せ。さあもう遅いから寮に戻るぞ」
「い、いえ帰りません」
「なっ」
「今はもう消えちゃいましたが、ハープのような音色が聞こえたんですっ。それにその音色を追うように、コロンが部屋から飛び出してしまって……。あとそれから、きらきら~っとした光を放つ、ものすごーく綺麗な方が目の前に現れて、それであの私に『早くおいで』と言って消えてしまったのですっ」
「お、おい睡蓮、落ち着けって」
脈略の無い話をされて昂は困惑したが、睡蓮の小さな両肩をそっと掴むと微笑んだ。
「そうだな、わかった。寮へ戻る前に祓ってやるからさ、うちに来いよ。コロンは見ていないけど心配ないって。今朝だっていつもみたく拝殿に来ていたけど、ちゃんと寮には戻ってきたんだろ? ほらあいつ、もしかしたらうちの狐にでも恋したのかもしれないぞ?」
冗談交じりに言ってみるも、睡蓮の眼差しは変わらない。穢れを知らない瞳を真っ直ぐ向けられ、昂は再び眉をハの字に戻すとため息を漏らした。
「しょうがないな、睡蓮は。意外と頑固なところ昔から変わっていないんだから。話し方だってそうだ。俺を気遣って――」
『なるほど、やはりお前が陽の巫女だったか。ああ悪くない』
低音の声。昂のものではない。むしろ睡蓮から聞こえてきたように思える。
二人は見つめ合ったまま固まった。しかし昂の何か言いたげな視線に、睡蓮は堪らず首を振った。
「い、いいえ私は何も……ひゃっ!?」
「うわっ!」
同時に声を上げた。睡蓮の胸の内側から何かが飛び出てきたからだ。
しかし昂はすぐに自分の胸元に手を忍ばせると、生成り色をした古めかしい札を一枚取り出す。碁石を掴むように中指の腹と人差し指で挟み、頬の横で構えた。もう片方の腕は睡蓮を守るように広げる。
「やっぱり行くんだよなぁ睡蓮。なら絶対に俺から離れるなよ……!」
「はい……!」
周りを警戒しつつ、大鳥居を潜って境内に続く石段へ足を掛けた。
『この程度で音を上げるのではないぞ小僧』
声が聞こえた直後、二人の眼前に広がっていた景色だけがぐわんっと歪む。まるで両端から圧縮されたかのように、階段の踏づらの幅が一人分ほどに狭まり、そして石段の数が永遠と伸びていく。
「昂くん……」
「大丈夫だ睡蓮。お前は俺が必ず護ってやる」
背中の着物を掴んで不安げにぴたりとくっ付く睡蓮に、昂はそう力強く言った。
「こ、コロンは」
「ああわかってる。ちゃんと連れて帰ってやろうな」
普段と変わらない態度で優しく接する昂のお陰で、睡蓮は強張りながらも緩やかに口角を上げて頷くことが出来た。
そして声に導かれ、なんとか精神を保ちつつ石段を上りきった二人だったが、そこでさらに喫驚した。
巨大な三柱鳥居が、満月を背にして正三角形を組んでいたからだ。
「な、なんだよこれ!? こんなのうちにないぞ!?」
「あっ昂くんっ、あそこに居ますのは先ほど廊下で見たカラスさんです!」
その鳥居の真ん中で声と入れ替わって現れたのは、一匹のカラス。足が三本あり、体長は通常のものよりも一回りほど大きかった。
突如現れたそのカラスが、けたたましく鳴きながら翼を広げると、なんとも異様な存在感は強大に際立つのだった。
二人が圧倒されている中、翼から散った無数の羽根が素早く螺旋を描いてカラスを包んだ。瞬時にして人の姿を模り、蝋燭の火を吹き消したかのように漆黒の羽根が煙となって消えていった。
煙が晴れると姿を見せたのは、なんと人間だった。カラスから姿を変えた美しい青年が、そこに佇むのだった。
青年は睡蓮に向けて不敵な笑みを浮かべると、自身の胸に手を当て頭を下げながら片膝を着いた。
「我が名は太秦。お隠れになった大御神の神託を授かるという陽の巫女を探しに参った。陽の巫女には、直ちに私と倭へ来てもらう」